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ビング提督の最期 Fate of Admiral Byng

 栄光に満ちたイギリス海軍の歴史のなかでもいくつかの汚点はありました。そのひとつをご紹介します。

ジョン・ビング

 ジョン・ビング John Byng (1704-1757) はイギリス海軍少将ジョージ George Byng, 1st Viscount Torrington (1663-1733) の四男として生まれた。13歳で海軍に入隊し海軍士官の道を歩き始める。当時、海軍士官になるためにはまず候補生として指導役の士官のもとで修業を積む必要があり、いわば徒弟制度だった。候補生に採用されるためには縁故が必須だった。ジョンも父ジョージのもとで候補生として働く。
 地中海艦隊司令長官に就任したジョージは1718年、シチリア島沖でスペイン艦隊をほぼ全滅させるという大勝を得る。ジョンも候補生としてこのパッサロ岬海戦に参加していた。ジョージはこの功績で子爵を与えられ、海軍大臣もつとめて1733年に死去した。
 ジョン・ビングはその後も地中海で勤務を続けるが1742年に北アメリカ、ニューファンドランド知事に就任する。当時はオーストリア継承戦争の最中で北米大陸ではフランス軍とイギリス軍が戦闘を繰り広げており、ニューファンドランドは重要な拠点だった。1745年にはスコットランドを防衛する地区司令官に移った。この年、フランスの支援を得てイギリスの王位を要求するスチュワート家のチャールズ Charles Stuart (1720-1788) の軍隊がスコットランドに上陸した。もともとスチュワート家はスコットランド王家で、スコットランド貴族の支持を得てロンドンをめざしたが、翌年のカロデンの戦いでチャールズ軍は粉砕された。ビングは海軍司令官としてスコットランドへのフランスからの支援を断った。1747年には父と同じく地中海艦隊司令長官に就任したが翌年には戦争が終結した。

ジョン・ビング

七年戦争とイギリス

 1740年、プロイセンがオーストリア領シレジアに侵入することでオーストリア継承戦争は始まった。オーストリアとフランスは長年の敵対関係にあり、イギリスはフランスと敵対していたから、イギリスはオーストリアを支援しフランスはプロイセンを支援した。1748年に戦争は終結したが、6年後の1754年には早くも北アメリカでフランスとイギリスの間で武力衝突(フレンチ・インディアン戦争)が始まっていた。
 この年、イギリスではヘンリー・ぺラム首相 Henry Pelham (1694-1754) が死去して兄ニューカッスル公 Thomas Pelham-Holles, 1st Duke of Newcastle (1693-1768) が新たに首相に就任した。国王ジョージ2世 George II (1683-1760) は出身地であるハノーヴァーの確実な防衛を首相に求めた。欧州大陸での戦争を避けたいニューカッスル公は、伝統的な勢力均衡策 Balance of Power でハノーヴァーを防衛しようとした。
 イギリスはまずハノーヴァー防衛のためにロシアから兵を借りることで合意を得た。そしてこれを、ロシアを恐れていたプロイセンに伝える。プロイセンはハノーヴァーを攻撃してロシアと戦うより、むしろハノーヴァーを領有するイギリスと協力したほうが得策と考え、フランスとの同盟を破棄してイギリスと同盟を締結した。
 しかしこの同盟はロシアの思わぬ反応をもたらす。ロシアではイギリスが求めた兵はハノーヴァーを「プロイセンから」防衛するためのものと考えていたのに、当のイギリスがそのプロイセンと同盟を結んでしまったのだ。もともとプロイセンのフリートリヒ2世 Friedrich II (1712-1786) を毛嫌いしていたロシアのエリザヴェータ女帝 Elizaveta (1709-1761) は激怒しオーストリアと結んだ。同盟国だったイギリスに見捨てられた形になったオーストリアは、目前の仇敵であるプロイセンと戦うために長年のライバルであったフランスとの関係改善に乗り出す。
 この「外交革命」と呼ばれる一連の動きにより、イギリスは結果としてプロイセン以外の大陸での同盟国をすべて失なうことになってしまった。周囲を敵国に包囲されたプロイセンは破れかぶれの先制攻撃に乗り出し、ヨーロッパでも戦争が始まった。1763年まで続いた戦争は七年戦争と呼ばれる。

「外交革命」

ミノルカ

 地中海西部バレアレス諸島のミノルカ島は、スペイン継承戦争中の1708年に占領して以来イギリスが支配して艦隊の拠点にしていた。特に島東部のマホン港は泊地として利用されており、その港口はセント・フィリップ要塞が守っていた。しかしミノルカ島自体はフランスからもスペインからも近く、攻撃には脆弱だと考えられていた。
 北アメリカでのイギリスとの戦闘で不利な情勢に追い込まれていたフランスは、どこかでイギリスの領土を占領してそれを代償にイギリスと交渉しようと考えた。まだこの時点ではイギリスと全面的に戦うつもりはなかったのだ。その交渉材料として選ばれたのがミノルカだった。1万6000名の兵士が動員された。
 まだ「外交革命」が進行中の1756年4月10日、ガリソニエール Rolland-Michel Barrin, comte de la Galissoniére (1693-1756) 率いる12隻の戦列艦と5隻のフリゲートに護衛されたフランス軍は南フランスのツーロン港を出撃した。18日にミノルカ島に上陸したフランス軍はマホン港をめざす。3000名に満たないイギリス守備隊はセント・フィリップ要塞に立て籠もる。港内のイギリス軍艦は脱出に成功した。フランス軍はセント・フィリップ要塞を包囲した。

マホン港とセント・フィリップ要塞。
(1781年の戦況図)

 ツーロンに艦隊と兵士が集結しているという報告はロンドンにも伝わっていた。その目的はミノルカと正しく判断しており、海軍本部はビングを改めて地中海艦隊司令長官に任命して派遣する。しかし海軍本部がビングに与えたのは10隻の戦列艦でしかなく、しかも多くは修理が必要で定員も充足されていない状態だった。
 4月6日にポーツマスを発ったビングはジブラルタルに寄港してから地中海に向かった。マホン港から脱出してきた艦と合流し、大規模なフランス軍が島に上陸してセント・フィリップ要塞に籠るイギリス軍を包囲しており、フランス艦隊が港を封鎖していると知らされる。
 5月20日、ビングの艦隊は包囲されている守備隊を救出するためにマホン港をめざしたがフランス艦隊に行手を阻まれる。合流を経て英仏艦隊の戦列艦は同数の12隻ずつだった。両艦隊は互いに戦列を組んで浅い角度で接近する。風上側に立ったのはイギリス艦隊だった。まず前衛同士が射程距離に入って互いに砲撃を開始する。ビングは戦列すべてが敵の戦列に接近して砲戦を交えることを望んだが、もともと練度が低く指揮下に入ってまもなく、しかも一部はほんの数日前に合流したばかりの戦列艦長たちにあらかじめ長官の意図を充分に周知することはできていなかった。
 結果としてイギリス艦隊の中央と後衛は充分に接近できず遊兵と化し、前衛だけがフランス艦隊の全体と交戦することになってしまう。前衛の最後尾にあったイントレピッド HMS Intrepid が損傷のため戦列外に出ると、後続艦は前衛に追随してその間隙を埋めることができない有様だった。イギリス艦隊の戦列は前後に分断された。ビングが苦労して戦列を再編成したころにはフランス艦隊も離脱していた。4時間に及ぶ海戦は終結し、互いの損害はほぼ同等だった。

ミノルカ海戦

 ビングはその後も付近にとどまって要塞の守備隊と連絡をとろうと試みるがフランスの監視は厳しくうまくいかない。海戦から4日後、ビングは旗艦に戦列艦長や自分の参謀を集めて今後の対応を協議した。仮にフランス艦隊を排除できたとしても艦隊の兵士だけではフランスの包囲軍には太刀打ちできない。いったんジブラルタルに帰還して修理と補給の上、海兵隊を搭載して攻撃を再興するのが得策と議論は決し、ビングはミノルカを離れてジブラルタルに向かった。
 6月19日にジブラルタルに帰還したビングは4隻の戦列艦を増援として得た。損傷艦には修理を施し、水や食料、弾薬が補給された。しかし艦隊が再出撃できるようになる以前に本国から指令が届き、ビングは司令長官を解任され本国に召喚された。ミノルカのイギリス軍守備隊は6月29日に降伏した。11月、ニューカッスル首相は開戦時の不手際を批判されて退陣に追い込まれた。

軍法会議

 海戦の直前、5月17日にイギリスは正式にフランスに宣戦布告した。避けたかったはずの戦争を始めざるを得なくなったのは政府の明らかな失敗だった。大陸での唯一の同盟国プロイセンはロシア、オーストリア、フランスの包囲攻撃をうけてハノーヴァー防衛どころの話ではなかった。イギリスは否応なしに大陸での陸戦に巻き込まれていく。
 批判が高まっていたところに飛び込んできたのがミノルカ失陥というニュースである。50年来確保してきた西部地中海の重要拠点を開戦直後にフランスに奪われてしまったのである。18世紀半ばのこの時代、エジプトはおろかマルタもイギリスの支配にはなかった。地中海西端のジプラルタルを除けば地中海内部の唯一のイギリス海軍の拠点だった。

 ロンドンの海軍本部がビングに与えた兵力が質量の両面で不充分だったことは明らかだった。しかし海軍本部はそれを隠した。海戦の5日後にビングが記した報告書が6月26日に政府の機関紙ロンドン・ガゼットに掲載されたが、状況の困難さを説明した部分や、ジプラルタルでの補給修理後ただちに再出撃する決意を示した部分は削除されていた。まるでビングが気弱になって戦場から逃れたかのように編集された記事はビングへの非難を巻き起こした。北アメリカのボストンでさえビングの肖像画を燃やす者が現れた。
 海軍本部はビングを逮捕して戦時規定違反の罪で軍法会議に付することにした。11年前の改定で、敵との戦闘または追撃において最善を尽くさなかった士官は階級や地位にかかわらず一律に死刑と定められていた。ビングの軍法会議は12月28日にポーツマスの戦列艦セントジョージ HMS St George 艦上で始まった。判事長は海軍大将トマス・スミス Thomas Smith (1707-1762) だった。
 1757年1月27日に言い渡された評決では、ビング個人の臆病な行動という罪状については否定された。しかし戦闘において戦列の維持に失敗したこと、旗艦が敵に接近することなく遠距離から砲撃を行なったこと、そして海戦後ただちにミノルカ救出に向かわずジブラルタルに戻ったことは「最善を尽くしたとは認められない」と判定された。量刑は自動的に死刑である。
 判事団自身も死刑という量刑は重すぎると考えていたが、他に選択の余地はなかった。彼らが期待したのは恩赦だった。判決で判事団は海軍本部が国王の恩赦を求めることを全員一致で要望した。海軍本部評議員のフォーブス John Forbes (1714-1796) は処刑執行命令書への署名を拒否した。新しい内閣の海軍大臣テンプル伯 Richard Grenville-Temple, 2nd Earl Temple (1711-1779) は国王に慈悲を乞うたが怒声とともに拒否された。
 判事団の一部は、ビングの代わりにその主張を述べるため守秘義務の解除を議会に請願した。下院は可決したが上院は否決してしまう。内閣の副総理格だった大ピット William Pitt, 1st Earl of Chatham (1708-1778) は前政権のニューカッスル内閣が充分な兵力を与えなかったのが敗戦の根本的な原因だと考えて国王に働きかけたが、効果がなかった。国王はかつてピットが「イギリスはハノーヴァーを含む大陸から手を引くべきだ」と主張したことを覚えていた。下院の多数派であるホイッグ党リーダーだったピットは国王に「陛下、下院は陛下の慈悲を望んでおります」と迫ったが、国王は「では下院以外の臣民の考えを調べねばなるまいな」と一蹴した。

 判決後、ビングは戦列艦モナーク HMS Monarch に拘束されていた。3月14日、後甲板の一段高いクォーターデッキに連れ出されたビングは、艦隊のすべての将兵が見守るなか、クッションの上にひざまずき、準備ができたことを知らせるためにハンカチを落とした。それを合図に海兵隊の銃殺隊が発砲した。

ビングの処刑

 ひどい始まり方をした七年戦争だったが、1759年には陸で、海で、北アメリカで、そしてインドでイギリス軍が大勝し「奇跡の年」といわれた。1763年に戦争が終わるとミノルカ島はイギリスに返還され、アメリカ独立戦争中の1781年に再度奪われるまでイギリスが支配した。戦時規定は再び改定され、最善を尽くしていないと判定された場合は「その程度に応じて刑の重さを定める」とされて一律に死刑を課されることはなくなった。

 ビングの遺骸は一家の墓地に埋葬された。親族は250年以上経った現在でも名誉回復を求め続けているがイギリス海軍はいまだに認めていない。

おわりに

 イギリス海軍のモットー「見敵必戦」がうまれたきっかけはこの事件だという記述をかつて何かで読んだ記憶があるのですが、今回改めて調べたかぎりでは確認できませんでした。勘違いだったのでしょうか。
 この事件は二重の意味でイギリス海軍史上の汚点となりました。ひとつはもちろん海戦の敗北によって領土を失なったことですが、なにより政府が自らの失策の責任を現場の指揮官におしつけあまつさえ死刑にしてしまったのが大問題でした。

 参考文献になります。

 画像はウィキペディアからの引用の他、ネットで拾ったパブリックドメインの画像を使用しました。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像はフランス軍に包囲されたセント・フィリップ要塞守備隊)


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