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イギリス貴族の制度のあれやこれ

 最近貴族制に関する本を読みました。もともとイギリス貴族には興味があって(だからこうした本を読んだのですが)一時期は英語版 Wikipedia のイギリス貴族に関する項目を読み耽ったものです。せっかくなのでこの機会に違った切り口でイギリス貴族制度についてまとめてみたいと思います。

 なおこちらの本自体は個人的に強くお勧めするものですが、未読であっても本稿を読むにはできるだけ支障がないようにしたいと思います。逆に既読の方には一部内容が重複することになりますがご容赦ください。
 説明対象となる時代は制度や慣習がほぼ確立した近代、19世紀ごろ以降を想定し必要に応じて過去の歴史に言及することにします。したがって特記ない場合は今世紀初頭にブレア政権が行なった貴族院改革以前の制度になります。ブレアの貴族院改革については最後にまとめて触れています。
 イギリスの貴族制度は日本のそれとはかなり異なる部分があり、対応する日本語自体が存在しないことが多々あります。そうした単語は便宜的に私訳していますがあくまでこの文中かぎりのものであることはご承知ください。初出時に原文を併記します。

誰が貴族と呼ばれるか

 貴族というと貴族階級の構成者をおしなべて呼ぶことばと思われがちですが、イギリスでは peer とは厳密にいうと爵位所有者のみを指します。夫人も嗣子も貴族ではありません。爵位保有者のみが貴族院 House of Lords に出席する資格を持っています。代わりに貴族は下院の選挙権も被選挙権もありません。逆に爵位を継承する前の嗣子は貴族ではないため選挙に関しては庶民 commoner と同じ扱いで下院(または庶民院) House of Commons に議席をもつことができます。

どの国の貴族?

 イギリスは正式な国名を連合王国 United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland と呼ぶことからもわかる通り、もともとは別々だった複数の王国が順次合同して成立してきたものです。こうした歴史的経緯から爵位が創設された時期などにより以下の五種類のいずれかに分類されます。

イングランド貴族 peerage of England
スコットランド貴族 peerage of Scotland
グレートブリテン貴族 peerage of Great Britain
アイルランド貴族 peerage of Ireland
連合王国貴族 peerage of the United Kingdom

 この順序はそのまま序列となっています。同爵者間の序列は基本的に爵位が与えられた年次が古い順になりますが、スコットランド貴族は年次にかかわらずイングランド貴族よりも序列が低く扱われます。
 もともとイングランドとスコットランドは別の国でそれぞれの議会を持ちそれぞれの貴族がいたのですが、1603年スコットランド王がイングランド王を兼ねることになり両国は同君連合 personal union を形成することになりました。この時点ではたまたま国王が同一人物であるだけという扱いでしたが名誉革命後の1707年に合同してグレートブリテン王国 Kingdom of Great Britain という単一の王国とされ、これ以降新たに与えられたのがグレートブリテン貴族ということになります。なおイングランドによるアイルランド制圧は古くから試みられてきましたが最終的に17世紀末ごろ完成しイングランド王(のちグレートブリテン王)がアイルランド王をも名乗ることになり、アイルランド王の名で発行された免許状によって爵位を与えられたのがアイルランド貴族とされます。1801年にはグレートブリテンとアイルランドの合同が断行され連合王国 United Kingdom of Great Britain and Ireland が成立します。これ以降に叙爵されたものは連合王国貴族となりますがアイルランド貴族の叙爵もしばらく続けられました(1868年が最後)。

爵位の種類

 爵位は五階級になり上から公爵 duke、侯爵 marquess、伯爵 earl、子爵 viscount、男爵 baron の順になります。この中では伯爵と男爵がもっとも古く、公爵がそれに次ぎ、侯爵と子爵が叙爵されるようになるのは比較的最近です。このなかでは公爵が単に最高というにとどまらず別格の扱いを受けています。
 それぞれの爵位の保有者の称号、夫人、領地を表す単語をまとめます。

公爵 duke / duchess / dukedom
侯爵 marquess / marchioness / marquessate
伯爵 earl / countess / earldom
子爵 viscount / viscountess / viscountcy
男爵 baron / baroness / barony

 伯爵夫人の countess が異様ですが、もともと大陸では伯爵を count と称していました。earl は北欧由来らしいのですが、夫人にだけ大陸系の単語が使われる慣習になっています。
 なお爵位を女性が自身の権利として保有することがあります。その場合の称号は夫人と同形で区別がありません。queen が女王と王妃の両方の意味に用いられるのと同様です。

爵位のもらい方

 爵位の授与は国王 sovereign の権限ですが実際には内閣の助言を得て行なわれます。これは免許状 letters patent の発行により領地を創設する(例えば公領の創設 creation of dukedom)という形をとります。近代以降は領地はたぶんに形式的なものとなり実態はありませんが観念としては領地の創設がまずあり、それに伴うものとして爵位が存在するという考え方は家単位で爵位が与えられる戦前日本の華族制度とは大きく異なります。

一家にひとつ、とは限らない

 これが日本の華族制度ともっとも違う点だと思うのですが、爵位の授与が領地支配という形式をとることからも、複数の爵位(=領地)を同時に一人が保有するということが可能でした。特に高位の貴族では複数の爵位を保有することが普通でした。ただし普段使用されるのはもっとも高い爵位のみであり、それより低い爵位は従属称号 subsidiary title(s) と呼ばれます。
 例として現存する貴族で序列最高位のノーフォーク公爵 Duke of Norfolk は、9個の従属称号を持っています(アランデル伯爵 Earl of Arundel、サリー伯爵 Earl of Surrey、ノーフォーク伯爵 Earl of Norfolk、ほか男爵6個)。このうちアランデル伯爵は結婚により継承、サリー伯爵とノーフォーク伯爵は公爵を与えられる以前に祖先、あるいは本人が得ていたものです。公爵が与えられたからといってそれ以前に得た免許状が取り上げられるわけではなく、それらは引き続き有効なのです。
 また現在保有している爵位よりも低い爵位を追加で与えられることもあります。序列や身分という観点では何も変わりませんが、まったく意味がないというわけではありません。詳しい説明はのちほど。

跡継ぎは誰が決める

 爵位の継承ルールは免許状に記載されているものに従います。といっても基本線は決まっており「嫡出男系男子、長子優先 heirs male of the body lawfully begotten」というものです。記述は簡単ですが解釈は慣習法 common law で確定しています。このルールは厳密に適用され恣意的な変更はできません。爵位保有者が後継者を選ぶこともできないし、継承を辞退することもできません。ただし「継承資格に疑問がある」とする訴訟が起こされたりすることはあります。たいていは本人か先祖の嫡出を争う裁判になります。嫡出 lawfully begotten というのは正式な結婚から生まれた子、ということです。慣習法では正式な結婚以前に生まれた子であってもその後両親が結婚すれば嫡出 legitimate とされますが、この場合は爵位の継承権はありません。また爵位の継承権は基本的に免許状を得た初代の子孫にのみ与えられます。いかに近親でも例えば初代の弟やその子孫といった傍系には継承権がありません。
 たとえどんなに由緒ある貴族であっても、免許状に記載された条件に合致する継承者がいなくなれば情け容赦なく断絶となります。また複数の爵位を保有しているとそれぞれの継承ルールが存在することになるので継承者がそれらの爵位すべてをまとめて継承できるとは限りません。
 例えばリンカーン伯爵 Earl of Lincoln という由緒正しい貴族がありますが、第9代伯爵がニューカッスル公爵 Duke of Newcastle を継承することになり第2代公爵を併せて名乗りました。1988年に至って第10代公爵が未婚のまま亡くなり公爵家は継承者なく断絶となりましたが、第2代リンカーン伯爵の子孫がオーストラリアに移住して健在だったのです。彼が第18代リンカーン伯爵を継承することになったのですが本人はそのことを新聞社から取材を申し込む電話ではじめて知ったとのことです。ちなみにリンカーン伯爵は1572年創設でイングランド貴族、ニューカッスル公爵は1756年創設でグレートブリテン貴族になります。

 いったん出された免許状の記述は厳密に運用されますが記述そのものは実はそれなりに融通がきいて、例外規定 special remainder が免許状発行時に書き加えられることがあります。例えば女子に継承を認める、あるいは本来認められない傍系の弟や従兄弟に継承を認めるなどです。
 1889年のこと、女王の孫にあたる王女がファイフ伯爵 Earl of Fife という貴族と結婚することになり、身分の釣り合いを取ろうという配慮だったのか新郎はファイフ公爵 Duke of Fife を与えられました。しかしこの夫妻は二人の娘に恵まれたものの男子を得ることができませんでした。このままではファイフ公爵家は一代で断絶してしまいます。そこで1900年にもう一通の免許状が発行されました。ファイフ公爵という称号は変わらず、ただ継承ルールに「初代公爵の女子とその子孫に限り継承できる」という例外規定が設けられました。この時点で初代公爵はふたつのファイフ公爵位を保持する状態になりました。1912年に初代公爵が亡くなると1889年に与えられたファイフ公爵は断絶となりましたが、1900年に与えられたファイフ公爵は長女に継承され彼女が第2代公爵(duchess)となりました。第2代公爵には男子がなく、妹(初代の次女)の息子が第3代公爵を継承し現在はその子孫が公爵位を保持しています。
 チャーチルの祖先でもある初代マールバラ公爵 Duke of Marlborough は、公爵に昇った直後に跡継ぎの男子を病気で失ってしまいました。困った夫妻は当時の女王に泣きつきます。公爵夫人は女王のお気に入りでその影響力は絶大でした。女王は議会にはかって法案を通過させ、免許状には記載されていない女子への継承を認めたのです。いったん発行された免許状の内容を事後になって変更させた例を私はほかに知りません。これはあくまで例外ということで先例にはならず、先にみたようにファイフ公爵家のケースでは異なる手段がとられました。

親の七光

 継承は免許状記載のルールに従って厳密に決まるので、順位は事前に想定することができます。継承順位がもっとも高い相続人 heir は爵位保有者が死亡すると自動的に爵位を継承することになるのですが、相続人には確定相続人 heir apparent と推定相続人 heir presumptive があり区別されました。前者は相続人本人が死亡しないかぎり確実に継承できる立場にある相続人で、もっとも一般的なのは爵位保有者の長男です。後者は現時点では継承順位がもっとも高いが今後順位が下がる可能性が理論的にあり得る立場にある相続人で、男子のいない爵位保有者の弟などがこれにあたります。順位が下がる可能性が現実的にはほぼあり得ないとしても理論的にあり得るのであれば推定相続人です。
 例えば第15代ダービー伯爵エドワード Edward Stanley, 15th Earl of Derby 夫妻はともに60歳を超えて男子がなく15歳年下の弟フレデリック Frederick Stanley が伯爵位を継承することが確実でありながら彼は推定相続人にとどまりました。夫人が男子を超高齢出産する、あるいは伯爵が夫人と死別あるいは離別して後妻をとり男子を得る可能性が現実的にはほぼ考えられないとしても完全にあり得ないとはいえないからです。のちフレデリックは兄の死を受けて第16代伯爵となりました。

 爵位保有者が複数の爵位を保有している場合、確定相続人は従属称号のひとつを名乗ります。例えばノーフォーク公爵の確定相続人はアランデル伯爵を名乗ります。これはあくまで名乗っているだけで実際の爵位保有者は公爵本人になるので「アランデル伯爵」は伯爵を名乗りながら貴族 peer ではなく庶民 commoner で、下院議員に立候補することもできます。こうした称号を儀礼称号 courtesy title と呼びます。
 どの爵位を儀礼称号とするかは慣例的に決まっていますが、従属称号のうちもっとも高位で由緒がある称号を選ぶのが一般的です。従属称号にさらに低い爵位が含まれる場合、確定相続人の確定相続人(長男の長男=長孫)も儀礼称号を名乗ります。「アランデル伯爵」に男子があればその長男は「マルトラヴァース男爵 Lord Maltravers」を名乗ることになります。儀礼称号として名乗る爵位は必ず親のそれより少なくとも一等低いものから選ばれます。
 なお貴族の親族の名乗り style は爵位保有者との続柄によって決まります。例えば公爵の次男以下は Lord John Smith などと名乗ります。推定相続人の場合は儀礼称号を名乗ることができず、こうしたルールに従って名乗ります。

男爵はあなどれない

 男爵は貴族のなかではもっとも低い爵位ではありますが、伯爵と並んでもっとも古い爵位でもあり、古くは男爵が貴族を表していた時代もありました。そうした古い時代には免許状という仕組みは整備されておらず、召喚状 writ of summons によって叙爵されるということがありました。召喚状とは議会への召喚を命ずる文書であり、当時議会に出席できるのは貴族でしたから、召喚状を受け取るということは貴族であると認められたということになるのです。
 しかしそれはあくまで召喚状であるため免許状のような形式はとられておらず、したがって免許状に不可欠な継承ルールの記載を欠いていました。召喚状で叙爵された男爵家(一部の伯爵家を含む)は慣習法により異なるルールで継承されます。年長の男子が優先的に継承するのは免許状の場合と同様なのですが、男子がいない場合は女子が継承します。複数の女子があった場合男子と異なり長幼に関係なくすべて同格の継承候補者となります。この状態を継承停止 abeyant といい複数の候補者のうち誰が継承するか決まるまで爵位は停止されます。候補者の地位自体も相続され、世代を経るうちに断絶するような家系が出てきて候補者がひとりになった時点で継承停止の状況は終了 termination of abeyance し、爵位はひとり残った継承者のものになります。このプロセスには数世紀かかることもあり、それが待ちきれない場合は国王に請願するという方法もありました。
 この仕組みは長期間の継承停止をともなうおそれはありますが、断絶をできるだけ回避するという効能もありノルマン征服時代にさかのぼるような古い男爵家が多く存続しているのはそのおかげだったかもしれません。

一代貴族

 ここまで述べてきた貴族は現在の分類では世襲貴族 hereditary peer と呼ばれるものになります。個別に見ていくと新たに創設されるものもある一方で断絶してしまうものもありますが、全体の傾向としては増加傾向にありました。時代が進むにつれて世襲制という制度には批判的な世論が強まり、単に先祖代々貴族であったというだけの理由で必ずしも優秀であるとは言えないではないかという議論が生じ、実際に実績を残した政治家、学者、企業家などに爵位を与えるとしても世襲貴族を新しくつくるだけになりかねず、そこで提案されたのが有識者を世襲できない終身の一代貴族 life peer に叙爵するというものでした。
 このアイデア自体はすでに19世紀からありましたが実現したのは戦後になりました。1958年からその時々の内閣による一代貴族の叙爵がはじまりました。爵位は一律に男爵とされ貴族院に議席を持ちます。サッチャー首相は下院議員を引退したのち一代貴族に叙爵され貴族院議員となりました。

 一代貴族の逆に一代に限って爵位を放棄するという制度が1963年にできました。実例をみてみましょう。第14代ヒューム伯爵 Alec Douglas-Home, 14th Earl of Home は貴族院に議席をもっていましたが、ときの首相であるマクミランから後継首相に指名されました。首相たるもの庶民院議員でなければならないと考えたヒューム伯爵は一代放棄の制度を利用し貴族院議員を辞任(というより資格を喪失)して庶民院議員選挙に立候補し当選、庶民院議員として首相に就任したのです。ヒュームが亡くなると爵位は復活して息子が第15代伯爵として爵位を継承しています。

貴族まであと少し

 準男爵 baronet は貴族ではありませんが世襲でその地位を継承し Sir の称号を許されます。もともと17世紀に戦費を調達するため国王が考案して富裕な紳士層に売るようになったと伝えられていますが、貴族の次男で功績をあげた者や軍人などに与えられた例もあり必ずしも準男爵すべてが金で買ったものとはいえないようです。貴族には及ばないものの上流階級の一角をなし、功績次第で貴族に昇った事例も少なくありません。

騎士団とは

 騎士団 order は現在では勲章 decoration の一種として機能しています。騎士団に入団を許されるということは名誉を与えられるということであり、階級は勲等の高低と直結しています。例えばバス騎士団 Order of the Bath には大十字騎士 Knight Grand Cross 、騎士長 Knight Commander、団士 Companion の三階級があり、上位ふたつが騎士(勲爵士) knight とされ Sir の称号を許されます。
 英国でもっとも序列が高い騎士団はイングランドのガーター騎士団 Order of the Garter で定数は24名以内に決まっています(王族や外国君主などの名誉騎士団員を除く)。スコットランドのシッスル(アザミ)騎士団 Order of the Thistle が続きます。アイルランドの最高勲章である聖パトリック騎士団 Order of Saint Patrick は事実上廃止状態になっています。これらの団員はすべて騎士として扱われますが、貴族で騎士となる例も多くそういう場合は Sir と呼ばれません。騎士と貴族は階級序列の階梯としてみることもできると同時に、騎士団と貴族は重なりあう部分も多分にありその関係は単純ではありません。

スコットランドは別の国

 五種類の貴族のうちグレートブリテン、アイルランド、連合王国貴族はもともとイングランド貴族を引き継いだものでその制度も基本的に同一ですが、スコットランド貴族は元来別の国であったこともあり特有の制度がいくつかあります。
 まず男爵のかわりにスコットランドでは卿 lord of parliament と呼びます。女性形は lady、領地は lordship です。
 また爵位の継承ルールも異なります。免許状の記述に依存するのですべてというわけではありませんが特に古いスコットランド貴族の場合継承権は heirs general にあるとされており、これはイングランドでは一般に許されていない女子や傍系による継承も認めていると解釈され、家系の断絶が起こりにくくなっています。これは氏族 clan 制度が社会の基本となっているスコットランドにおいて氏族長 chieftain が不在になることを避けたためではないかと考えられます。ただし後期にはイングランドの影響が強まったのかイングランド式の継承ルールが主流になってきます。
 また召喚状によって叙爵された男爵において、男子の継承者がなかった場合は女子が継承するところまでは同じですが、最年長の女子が単独で継承するため複数の女子があった場合でも継承停止になることはありません。
 相続人の称号も違います。確定相続人か推定相続人かにかかわりなく master を名乗ります。例えばハミルトン公爵 Duke of Hamilton の相続人は推定相続人(例えば爵位保有者の弟など)であった場合でも Master of Hamilton を名乗ります。

王族と貴族の境目

 王族男子は結婚などにより独立したタイミングで公爵を与えられるのが慣例になっています。これを王族公爵 royal duke と呼び通常の貴族とは区別されています。例えば最近話題のハリー王子は結婚時にサセックス公爵 Duke of Sussex を与えられています。王室からの実質的な離脱でこの称号は返上したとのことですが、免許状が剥奪されたというわけではなく法的にはいまだに爵位を維持しています。称号は持っているけれど使用していないという扱いなのでしょう。
 王室の範囲は時代によって変わりますが現在では王子 prince や王女 princess の称号の保有者がそれにあたり、君主の子女、男子の配偶者、男系の孫、男系の男孫の配偶者、長男子の長男子の長男子(曾孫)とされていますが、エリザベス女王の布告によりウィリアム王子の子女は全員王子または王女の称号を持っています。これに加えて君主と君主の配偶者をあわせた範囲が王室のメンバーということになります。
 日本と異なり王族女子が王族ではない男子と結婚したとしても王族の地位は失わず相変わらず王女を名乗ります。先に紹介したファイフ公爵の例でも、結婚により公爵夫人 Duchess of Fife を名乗るようになった以降も王女の地位を持ち続けています。ただし王族かどうかは王位継承という観点ではあまり大きな意味はありません。王位継承順位上位者に王族が多いのは国王の近親なので当然ですが、王族以外の人物が王族よりも高い位置にある例も多くあります。例えばエリザベス女王の長女アン王女の子孫は貴族でもない庶民ですが、女王の従兄弟にあたり王子であるグロスタ公やケント公より王位継承順位は高くなっています。

 王族公爵であっても免許状の継承順位に従います。継承者がいなくなれば断絶することになり実際そうした例は非常に多く見られます。ただ王族の範囲は君主との関係の近さといういわば「制限距離」があるのに対し、爵位の継承にはそうした制限はありません。条件を満たすかぎりいくらでも継承し続けることができます。たとえはじめは王族として与えられた爵位であっても継承を繰り返せばいつかは王族の範囲を飛び出すことになりそうなればもはや普通の貴族という扱いになります。
 ジョージ5世の孫にあたる現在の第2代ケント公エドワード王子 Prince Edward, 2nd Duke of Kent の確定相続人は国王の曾孫になるので王子とは呼びません。現在は儀礼称号であるセントアンドリュース伯爵 Earl of St Andrews を名乗る commoner ということになります。将来父の爵位を継承して第3代公爵となれば peer の仲間入りということになります。
 爵位を保有している人物が国王に即位した場合、その爵位(と領地)は王位に統合 merge to throne されます。最近の例ではエリザベス女王の配偶者であったフィリップ殿下が亡くなったとき、保有していたエジンバラ公 Duke of Edinburgh などの爵位は長男であるチャールズ王太子(当時)に継承されました。王太子がチャールズ3世として即位するとこの爵位は王位に統合されて消滅しました。国王の末弟であるウェセックス伯エドワード王子 Prince Edward, Earl of Wessex がエジンバラ公を引き継ぐ予定という話もありますが、それには改めて公爵位の創設と免許状の授与を経る必要があり国王の意思次第なので先行きは不透明です。

 なお王族公爵にはいくつか特別な扱いがされるものがあります。ひとつはランカスター公爵 Duke of Lancaster でこの爵位は常に君主が保持するものとされ断絶することはありません。閣僚として「ランカスター公領担当大臣」なる役職が存在しますがほぼ実務としてはないものと考えられます。
 コーンウォール公爵 Duke of Cornwall は君主の確定相続人が自動的に保有する爵位とされています。王太子 Prince of Wales の称号と異なり特に国王の布告は必要なく、確定相続人の移動(誕生や死亡、即位など)があれば自動的に与えられます。現在のカミラ王妃は現国王の即位以前は王太子妃 Princess of Wales の代わりにコーンウォール公爵夫人 Duchess of Cornwall を名乗っていました。なおコーンウォール公爵の従属称号のひとつにチェスター伯爵 Earl of Chester がありますがこれは公爵位よりも起源が古く王太子のフルサイズの称号ではコーンウォール公爵よりも先に言及されておりある意味で格上とみなされているのでしょう。
 ロスシー公爵 Duke of Rothesay も君主の確定相続人が自動的に保有する称号ですがコーンウォール公爵がイングランド貴族であるのに対してこちらはスコットランド貴族であり、もともとスコットランド王太子が称したものでした。王太子がスコットランドを訪問するときはロスシー公爵を名乗る慣例となっています。

卵か鶏か、貴族か貴族院か

 これまで見てきた通り貴族と議会 parliament の関係はかなり密接です。少なくとも初期の議会においては貴族と議会は一体不可分でした。議員として認められることは貴族として認められることと同義だったのです。こうした歴史を反映して世襲貴族や一代貴族は全員例外なく貴族院議員となります。そのため議員数には決まった定数というものはなく、最終的には1000名を超えました。これは中国の国会にあたる全国人民代表大会(約3000名)に次いで多いとされています。
 貴族が議員なので、逆に議員であるために貴族と呼ばれるのがいわゆる法服貴族 law lords でした。貴族院が最高裁判所の役割を兼ねていたため司法の専門家が19世紀後半に加えられたものです。さらに古くから高位の聖職者が貴族院議員を兼ねており聖職貴族 Lords Spiritual と呼ばれ、定数は26名となっています。これに世襲貴族と一代貴族が加わって貴族院を構成しています。

 もともとイングランドとスコットランドには独自の議会があり貴族院もそれぞれ存在していたのですが、1707年に両国が合同するとスコットランド議会は廃止されてロンドンの議会に吸収されることになりました。ここで問題になったのがスコットランド貴族の扱いで、イングランド貴族の抵抗のためスコットランド貴族は互選により一定数の代表者を貴族院に派遣することとなったのです。これまで当然のこととして議席を得ていたスコットランド貴族の多くが議会に出席できなくなったことは、彼らのプライドをいたく傷つけました。同じことは1801年にアイルランド議会が廃止されたときにも起こりました。イングランド貴族、グレートブリテン貴族、連合王国貴族が無条件で全員出席資格をもっていたのと比べると差別的な取り扱いだったと言わざるを得ません。
 ただしこれにも抜道があって、例えばスコットランド貴族である伯爵に新たに連合王国貴族として男爵を与えれば、連合王国貴族の資格で貴族院に出席できるようになります。こうした例が実際どれくらいあったかまでは把握できていませんが、本来の趣旨からして際限なく認めるわけにもいかずそれほど多くなかったのではないかと推測します。スコットランドの代表議員制度が廃止されスコットランド貴族全員が無条件で議員になれるようになったのは1963年のことでした。なおアイルランドはこれ以前に独立しており議員の派遣そのものが廃止されています。

ブレアの貴族院改革

 もともと議会は貴族院だけで構成されていましたが、やがて貴族以外の庶民の代表からなる庶民院も成立し二院制が生まれました。時代が下ると庶民院の方が民意をよく反映しているとみられるようになり、庶民院が貴族院に優越するという慣習が確立しました。20世紀に入るころには首相 prime minister は庶民院議員のなかから選ばれるのが常道とされるようになり、第一次世界大戦後には普通選挙制が施行されたこともあって貴族院の役割は低下しました。
 貴族院の改革はたびたび議論となり一代貴族の創設もその一貫でしたが、1997年に労働党ブレア政権が誕生すると本格的な改革にとりかかりました。ブレアは全ての世襲貴族から議席を奪い、政府が任命する一代貴族だけで貴族院を構成するという構想を打ち出しました。当然これには世襲貴族から強い反対が出て、結果としては世襲貴族は互選により90名の代表を選出するということになりました。かつてのスコットランド貴族の悲哀を今度は世襲貴族が味わうことになったのです。世襲貴族代表議員の任期は終身で(途中辞任も可能)、欠員が出たタイミングで補充選挙が行なわれます。一代貴族は全員が議席をもつため圧倒的な大多数を一代貴族が占めることになり、世襲貴族の議会への影響力は大きく削がれることになりました。この改革法案は1999年に議会を通過して施行されました。ついで2003年には最高裁判所が独立し法服貴族の任命が停止されました(既存の議員は残留)。
 改革以前の貴族院では世襲貴族を中心とする保守派が多数を占めていましたが、一代貴族の参入でその構図は大きく揺るがされ、ブレア改革でまったく変わりました。現在の貴族院には保守党 Conservative と労働党 Labour の党派が存在しますが、その一方で無党派 crossbencher もかなりの割合を占めておりどちらか一方の党派にかたむくようなことはありません。結局このあたりは多数を占める一代貴族を任命するその時の政府の匙加減に大きく影響されることになるため、内閣が党利党略に走らず公正な人選をできるかどうかが鍵になるでしょう。

おわりに

 相変わらず需要が限りなくゼロに近いような事柄を長々と書き連ねてしまいました。もし最後まで読まれたという奇特な方がおられましたら御礼とともにご苦労様でしたと申し上げます。
 森護先生の一連の著作(特に「英国の貴族〜遅れてきた公爵」はかわりになるものがない貴重な本でした)を最初のきっかけにイギリスの王室や貴族に興味を持ち始め、冒頭で触れたように英語版ウィキペディアの関連項目を読み耽ったり、peerage.com を参照して家系図を作ったりという時期がありました。
 残念なことにイギリスの貴族について日本語で調べてみようとしてもみつかるのは難解で高価な学術書か、そうでなければ貴族のセレブな側面に焦点をあてたような書籍ばかりで制度について簡潔にまとめたような資料は見つけられませんでした。
 必要に迫られて(完全に趣味なのですが)調べた内容、万一誰かの役に立てば使った時間も少しは意義があったと思えるだろうと頭の中に溜め込んだものを吐き出してみることにしたのです。目指すは伊藤隆先生の名著「昭和戦前期の日本」のイギリス貴族制度版(無理無理)。

 個人的にはまだまだ書き足りないのですがこれ以上分量が増えても読みづらくなるだけなので泣く泣く切り上げることにします。王室についてももっと書きたかった、style についてももっと書きたかったし、エピソードも盛り込みたかったのですけど。style は結構奥が深いのでもし興味があればウィキペディアの「Forms of address in the United Kingdom」の項目をお読みください。

 ではもし次の機会がありましたらお会いしましょう。

(カバー画像はマールバラ公爵の居城ブレニム宮殿)

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