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コクランの後継者たち - ノートンとグレンフェル

 南米諸国の独立に寄与したイギリス出身の海軍軍人としては先にとりあげたコクランが有名ですが、その後もとどまってコクランを引き継いだ人々がいました。ブラジル海軍で働いたふたりをとりあげます。

ノートンとグレンフェル

 ジェームズ・ノートン James Norton は 1789年、イングランド中部のニューアークで生まれる。グラントリー男爵の縁戚ともされるが系譜関係は確認できなかった。イギリス海軍に入隊、ナポレオン戦争に従軍してフランス軍やデンマーク軍と戦った。戦後は東インド会社に入り商船に乗り組む。1819年ボンベイでアースキン中佐の未亡人と結婚して3人の連れ子をあわせて引き取った。子供たちはアースキン男爵の孫にあたる。
 ブラジル独立戦争が始まるとブラジル帝国政府は海軍のための人材を求めた。バルバセナ侯爵がイギリスに派遣され求人を行なった。バルバセナはノートンについて「もっとも経験に富んだ有能な船乗り」と報告して人材集めを任せたという。イギリスは公式にはポルトガルを支持していたためこうした募集は大っぴらにはできなかったが、ノートンは5隻の船と147名の士官を集めることに成功し1823年8月23日、リオデジャネイロに到着した。

ジェームズ・ノートン

 ジョン・グレンフェル John Pascoe Grenfell は1800年、ロンドンで生まれた。11歳のときから東インド会社の船に乗り組んでいたが1819年、コクラン Thomas Cochrane (1775-1860) の募集に応じてチリに渡る。チリ独立戦争中、コクランに従って各地を転戦しフリゲート、エスメラルダの奪取作戦にも参加した。1823年、コクランがチリを離れてブラジルに移るとグレンフェルも付き従ってブラジルに渡る。

ジョン・グレンフェル

コクランの下で

 ノートンがリオデジャネイロに到着した時、コクランはすでにブラジル北部のポルトガル支配地域の鎮圧に向かっていた。グレンフェルはその下で1隻のブリッグ(小型の帆船)を任されていた。アマゾン河口に近いべレムの攻略を命じられたとき、グレンフェルはコクランがマリニャンで行なったものと同じ手口、つまり大軍がもうすぐやってくるというはったりで守備隊を降伏させた。
 遅れて到着したノートンたちは、アメリカ出身でアルゼンチン海軍で働きその後ブラジルに移ってきたジュウェット David Jewett (1772-1842) の支隊に編入され、やはり北部の鎮圧に派遣された。
 翌1824年、北部ペルナンブコで中央政府に対する反乱が起きるとコクランの指揮でジュウェット、ノートン、グランフェルは揃って鎮圧に赴く。しかし反乱鎮圧後コクランは首都に帰還することを拒否してそのままイギリスに戻ってしまった。
 ジュウェットは乗艦を不必要な危険にさらしたとされて軍法会議にかけられ禁錮2年の宣告をうけるが2ヶ月後に皇帝の命令で赦免される。しかし健康の悪化もあって第一線に戻ることはなかった。

アルゼンチンとの戦争

 ラプラタ川河口の東側、現在のウルグアイにあたる地域は植民地時代からポルトガルとスペインのあいだで係争地となっていた。ナポレオン戦争で王室がブラジルに移ってきていたポルトガルは、アルゼンチンが独立戦争を戦っているのに乗じてこの地域を併合しシスプラティナと呼んだ。

当時のブラジルとシスプラティナ


 アルゼンチンはいったんブラジルによる併合を認めたものの、独立戦争がひと段落すると早速シスプラティナ(アルゼンチンではバンダ・オリエンタルと呼んだ)に干渉を始める。現地の有力者に働きかけて資金や武器の援助を始めたのである。シスプラティナ地方は内乱状態に陥った。独立派は首都モンテヴィデオを占拠しブラジルからの独立とアルゼンチンとの連合を宣言した。ブラジルはアルゼンチンに宣戦布告する。シスプラティナ戦争と呼ばれる。

 開戦当時、ブラジル海軍は100隻近い軍艦を保有していたがアルゼンチンとバンダ・オリエンタルの連合(ラプラタ連合と称した)の海軍はその10分の1に過ぎなかった。しかしアルゼンチン海軍の指揮官ブラウン William (Guillermo) Brown (1777-1857) は積極的に攻撃に出てブラジル海軍にしばしば痛撃を与えた。一度はモンテヴィデオ港に侵入され在泊していた軍艦を危うく捕獲されるところだった。
 ブラジル海軍は戦力を3つに分割し、第1戦隊はモンテヴィデオを防御する東方戦隊とした。第2戦隊はモンテヴィデオとブエノス・アイレスのあいだのラプラタ川河口を封鎖する封鎖戦隊で、第3戦隊はラプラタ川上流の警備にあたった。この中でもっとも重要なのは封鎖にあたる第2戦隊である。この指揮官に選ばれたのはノートンだった。
 ブラウンはブラジル艦隊の封鎖線をしばしば突破して逆にブラジル商船を攻撃した。また封鎖にあたるブラジル軍艦も孤立しているとみるや積極的に攻撃した。1826年7月29日にはノートンの下で艦長として封鎖にあたっていたグレンフェルがブラウンの襲撃をうけて右腕を失なうという重傷を負った。
 しかし圧倒的に優勢なブラジル艦隊の前にアルゼンチンは劣勢に追い込まれていく。戦闘では互いに勝敗があったものの、損害が蓄積していけば先に限界に達するのはアルゼンチンのほうである。ブラジルによる厳しい封鎖によってブエノス・アイレスの市民は経済的に苦しめられ厭戦気分が強まった。

ブエノス・アイレスを襲撃するブラジル艦隊


 一方でブラジル側にも弱点があった。シスプラティナ地方はブラジル中心部からみてはるか南方になり、こうした地域を争う戦争はブラジル国民一般に支持されなかった。ブラジル陸軍では志願兵を募ったが思うようには集まらず外国からの傭兵で補わざるを得なかった。
 ブエノス・アイレスの政権は封鎖によって経済的に苦境に陥った市民の支持を失ない倒れた。その一方でアルゼンチン陸軍は寄せ集めのブラジル陸軍を破りシスプラティナへの侵入を許さなかった。ブラジルは海では完勝しながら陸では敗れ、イギリスの調停でアルゼンチンと講和した。シスプラティナあるいはバンダ・オリエンタルはいずれに編入されることもなくウルグアイ東方共和国として独立した。

シスプラティナ戦争

 戦後ノートンは多くの勲章を授けられ少将に昇進しブラジル海軍の英雄となった。しかし1835年、ニュージーランドに使節として派遣されたその帰途、船上で死去する。

ふたたびアルゼンチンとの戦争

 ノートン亡き後のブラジル海軍をリードしたのはグレンフェルだった。1841年には少将に昇進し、1846年にはリバプール総領事としてイギリスに派遣され、リバプールの造船所でブラジル海軍向けに提案されている最新の軍艦を視察した。グレンフェルの報告をうけて本国政府は購入を決定する。

 アルゼンチンではブエノス・アイレス州知事ロサス Juan Manuel de Rosas (1793-1877) が実質的な独裁者としてふるまっていた。ロサスはかつてのスペイン領ラプラタ副王国の領域をアルゼンチンがすべて支配するという野望を抱いており、ブラジルとの戦争で失なったウルグアイや、北部で事実上の独立国となっていたパラグアイばかりでなく一部のブラジル領土にまで食指を伸ばしていた。
 ブラジルではアルゼンチンとのあいだに緩衝地帯を残しておきたいと考えていたから、この動きに対抗して初めてパラグアイ政府を承認するとともに内戦状態だったウルグアイで反アルゼンチン派を支援した。さらにアルゼンチン国内でロサスに反発してブエノス・アイレス州の支配を否定する州があらわれるとブラジルはこうした州とも同盟を結んだ。頭越しに行なわれた同盟に激怒したロサスはブラジルに宣戦布告しラプラタ戦争が始まった。

 ブラジル海軍はリバプールからグレンフェルを呼び戻して艦隊の指揮官とした。ブラジル艦隊はまずウルグアイ川やパラニャ川(河口付近で合流してラプラタ川となる)を制圧してウルグアイをアルゼンチンから切り離す。ウルグアイでアルゼンチン派を代表するオリベ将軍 Manuel Oribe (1793-1857) が率いる部隊はアルゼンチンからの支援が受けられない状態で、南下してきたブラジル軍を主体とする反ロサス連合軍の攻撃を受けて敗れ、オリベ将軍は捕虜となる。反ロサス派のアルゼンチン軍を率いて参加していたのちのアルゼンチン大統領ウルキサ Justo José de Urquiza (1801-1870) は全員殺してしまえと主張したがグレンフェルがそれを押しとどめたという。
 連合軍はグレンフェルが制圧したパラニャ川を西に渡河する。グレンフェルの艦隊と守備隊のあいだで激しい砲撃戦になったが陸兵が渡河に成功すると守備隊は撤退した。ロサスは自ら軍を率いて連合軍を首都ブエノス・アイレス近郊で迎え撃つ。戦力的には互角であったが結果は連合軍の圧勝に終わりロサスは逃亡する。ロサスの野望は打ち砕かれウルグアイとパラグアイは独立を維持した。アルゼンチンは地方分権をめざす連邦派とブエノス・アイレスを中心とする集権派のあいだで10年におよぶ内戦が始まった。

ラプラタ戦争

 ブラジル政府はグレンフェルに子爵を与えようとしたが、イギリス国籍を残しておりブラジル国民ではないとして皇帝に拒否された。しかしのち中将、さらに大将に昇進した上で再びリバプール総領事として赴任する。1861年コクランの葬儀にはブラジルを代表して参列した。1868年、パリにて死去。

おわりに

 コクランはブラジル政府と仲違いして早々に帰国してしまいましたが、ノートンとグレンフェルはその後もブラジルにとどまって度重なる戦争に従軍して功績を立てました。しかしほとんど知られていないようです。日本語版ウィキペディアにはふたりの項目はなく、英語でも比較的簡単です。またも自動翻訳の世話になってもっばらスペイン語版(なぜかポルトガル語版より詳しかった)に頼って書き上げました。
 19世紀の南米は三国志さながらの合従連衡が激しく面白そうなのですが、底なし沼の予感がして深入りできないでいます。それでも興味深いトピックがいくつかありますので、いずれ記事にするかもしれません。

 直接の参考文献ではありませんが、冒頭の情勢説明は今回の記事とも重なる部分があり参考になります。


 なお画像や図版はウィキペディアより引用しました。

 ではもし機会がありましたらまた次にお会いしましょう。

(カバー画像はグレンフェルがリバプールで視察してブラジルが購入したフリゲート、ドン・アフォンソ)

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