山本五十六と吉田善吾 - 順位について
山本五十六と吉田善吾は海軍兵学校の同期生で、その順位は兵学校卒業時は山本のほうが上だったのですが、将官になると逆転しています。その経緯を追いました。
それぞれの伝記記事は以下になります。
同期の桜
山本五十六はおそらく旧日本海軍軍人としてはもっとも著名な人物のひとりだろう。吉田善吾は知名度では見劣りするが山本の前の聯合艦隊司令長官である。ふたりは海軍兵学校の同期生(32期生)で、日露戦争中の明治37(1904)年に卒業して少尉候補生を命ぜられてから、昭和15(1940)年11月15日に海軍大将に親任されるまですべて同日に進級しており、その経歴に大きな優劣はない。兵学校の卒業順位(いわゆるハンモックナンバー)も同期生192名中山本(卒業時は高野姓)が11位、吉田が12位と近接している。知ってのとおり山本は昭和18(1943)年4月18日、聯合艦隊司令長官として戦死した。吉田は戦前に海軍大臣を勤めたあと、戦時中は支那方面艦隊司令長官などに補せられたが、終戦もまぢかい昭和20(1945)年6月1日に予備役となった。「依願予備役被仰付」とあり本人の申し出によるとされてはいるが、この時期に行われた人事異動の一環であろう。
電報符
軍隊という組織は上下関係を明確にすることを求められる。命令権が誰にあるかをはっきりさせる必要があるからだ。「軍令承行令」には「軍令は将校官階の上下任官の先後に依り順次之を承行す」(原文カタカナ)とあり、つまり階級が違えば高いほう、同階級の場合は進級が早いほうに命令権があるということになる。
では山本と吉田のように同日に進級した場合はどうなるのか。これは「任官の先後」の解釈による。「先後」を日付の違いとは見ずに単に順序と考えるならば、辞令記載の順序になる。昭和 9(1934)年11月15日にふたりが海軍中将に進級したときの辞令(11月16日官報)には次の順序で記載されている。
上の3人(津田から小林)は先輩にあたる31期生、井上から同期生の32期生になる。もし吉田と山本で軍令承行を争う状況が起こったら、吉田が山本に対する命令権をもつことになる。
とはいえ、いちいち辞令を参照するのは大変だからその順序は「現役海軍士官名簿」に反映される。現役海軍士官名簿は毎年作成され、辞令の順序に従ってすべての現役海軍士官が掲載され、それぞれ電報符が与えられる。電報符は1から始まる数字で、電報の宛先を示すのと同時に海軍士官としての序列を表している。この名簿を参照して電報符の小さいほうが先任ということになる。昭和9年5月に東郷元帥がなくなって以降、終戦まで電報符1番は伏見宮博恭王という時代が長く続いた。
吉田と山本
海軍中将進級時には山本よりも吉田のほうが先任とされた。昭和15(1940)年11月15日に海軍大将に進級したときにも、吉田が先に記載されている。基本的には同期生同士の順位の違いはハンモックナンバーを踏襲している。進級を重ねるあいだに上位の者が抜擢進級されたり、逆に進級に漏れたりして前後のクラスと入れ替わっていく。「任官の先後」は進級時にしか起こらないので、進級しないあいだに先任後任がいれかわることはあり得ない。また将官にいたれば抜擢進級はしないことになっているので、こうなるともはや追い越すことは不可能である。
さて吉田と山本だが、兵学校卒業時には山本が11位、吉田が12位で隣同士だが山本のほうが上だった。しかし中将進級時には吉田のほうが上になっている。どこかで順位がいれかわっているはずだが、既述のとおり吉田と山本の進級日付はまったく同一である。こうなると進級するごとに辞令の記載順位をいちいち確認するしかない。
国立国会図書館のデジタルライブラリでは、大正10年から昭和12年までの現役海軍士官名簿が参照できる(一部は利用者登録が必要)。そのなかでもっとも古い大正10年の名簿によると、吉田中佐の電報符は495番、山本は497番(496番は太田質平 - のち海軍少将)ですでに吉田が上回っている。中佐進級時点では吉田が上のはずなので飛ばし、少佐進級(大正4年12月13日)を確認してみると12月14日官報に掲載されている辞令で高野五十六(山本五十六)が吉田善吾の前に掲載されているのがみつかった。ここから中佐進級(大正8年12月1日)までのあいだに逆転されるなにかがあったことになる。
実役停年
この間のふたりの履歴をこまかく見てみよう。まず吉田は少佐進級と同時に海軍大学校甲種学生課程を修了し、第三艦隊参謀に配属されている。2年の参謀勤務ののち海軍水雷学校教官(吉田の専門は水雷)を勤め、第一水雷戦隊参謀に転じた直後に中佐に進級している。まず順風満帆な軍歴と言えるだろう。
いっぽうの高野少佐だが、少佐進級時はまだ海軍大学校甲種学生で修了までに1年を要した。余談だが甲種学生の課程は2年間で、そのうち1年を大尉、1年を少佐で過ごすケースが多い。2年間のちょうど真ん中で少佐に進級することになる。高野(山本)はこのケースに該当し、吉田は少し早めに経験したと言える。山本(大正5年9月改姓)は甲種学生修了後に第二艦隊参謀に配属されたが一月も経たずに待命となり、さらに半年後に休職となっている。チフスに感染して入院し、一時は危ぶまれるほどの重態だったという。幸いにも回復して故郷の新潟県長岡で一時養生したのち、大正6年7月に海軍省軍務局局員として復帰した。
海軍武官進級令には、少佐から進級するために必要な実役停年(勤務日数)は2年と定められており、少なくともこれだけの勤務実績がないと進級できない。同じく海軍武官進級令の第9条には「待命・休職期間は勤務日数に算入しない」(意訳)という規定があり、つまり山本はその分だけ実役停年が足りていないということになる。
もっとも、海軍武官進級令で定める実役停年は必要最低限であって、実際にこの数値の通りに進級していく者はいない。皇太子がかろうじてこれに近い進級をするくらいで皇族であっても規定より長いのが普通であり、一般の士官はだいたい規定の倍くらいを要するのが通例だった。吉田と山本は中佐進級までほぼ4年を要しておりこれでも最速の部類に入る。
逆転
大正8(1919)年の定期異動(12月1日付)で少佐4年目の吉田・山本たちは中佐に進級することになった。吉田の実役停年は4年の満額、艦隊勤務の加算(3分の1追加)もあり昇進に文句はない。山本は軍務局員からアメリカ勤務となり滞米中だったが、4年の勤務のうち約7ヵ月分が待命・休職として勤務日数から除かれ、第二艦隊参謀勤務による加算も1ヵ月弱なので10日の加算にもならず実役停年は3年半に満たなかっただろう。必要な実役停年は2年なので進級そのものには問題がなかったにしろ、満額勤務の吉田と横並びで昇進させるのはどうかと考えられたらしく、山本の順位を2つ下げて吉田と太田の下に置かれたようだ。こうして吉田と山本の順位は逆転した。当時の海軍大臣は加藤友三郎、人事局長は谷口尚真、主管の人事局第一課長は永野修身であった。
吉田が山本より先任という状態はそれ以後変わらず、山本の戦死まで継続する。ただしその間、山本と吉田のあいだで先任争いがおこるような状況はなかったようだ。人事配置の上でこうした状況を避ける配慮がされたものだろう。
おわりに
吉田と山本で、卒業時の順位と将官時代の順位がいれかわっているのに気づいたのは結構以前でもうはっきり覚えていませんが、長年の疑問として心の片隅にひっかかっていました。少佐時代に山本が病欠していたことを知って「ひょっとしたら」と思ったのですが、ちゃんと史料を確認したのは初めてになります。たまたま別の理由で現役海軍士官名簿を参照する機会があったことがきっかけになりました。
長年の疑問がひとつ解消されてちょっとすっきりしました。
ではもし機会がありましたらまたお会いしましょう。
(カバー画像は山本 - 左 - と吉田 - 右 - ともに Wikipedia より)
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