海軍軍人伝 大将(13) 塚原二四三
これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は塚原二四三です。
前回の記事は以下になります。
臨時航空術講習部部員
塚原二四三は明治20(1887)年4月3日に福井県で生まれた。本籍のある山梨県で育ち、甲府中学に学んだあと、日露戦争が終わった直後の海軍兵学校に入校した。明治41(1908)年11月21日に第36期生191名中20位で卒業した。この中には卒業前に病死した有栖川宮栽仁王が名目的な首席として含まれている。実質的な首席は佐藤市郎だった。卒業した候補生はまず遠洋航海を行なう。遠洋航海にはこれまでいわゆる三景艦があてられてきたが前年度の航海途中で松島が爆沈したのを機に練習艦隊から退き、この年からは日露戦争で捕獲された巡洋艦阿蘇と宗谷が充当された。塚原が乗り組んだのは防護巡洋艦宗谷(もとワリアーグ)である。伊地知彦次郎司令官の指揮でハワイ、北米西海岸を歴訪して5ヶ月近い航海を終えて帰国すると装甲巡洋艦磐手に配属される。年度末にやはりロシアからの捕獲艦である海防艦沖島に移って明治43(1910)年1月15日に海軍少尉に任官する。
初級将校が必ず受ける砲術学校と水雷学校の普通科学生を修了して戦艦敷島に乗り組む。明治44(1911)年12月1日に海軍中尉に進級し、佐世保海兵団で勤務したあと駆逐艦夕立に乗り組む。さらに装甲巡洋艦阿蘇乗組を経て大正3(1914)年12月1日に海軍大尉に進級すると同時に海軍大学校専修学生の前提となる乙種学生を命じられる。専修学生はのちの航海学生に相当する。さらに航海学生はほかの術科(砲術など)の高等科学生に相当する。航海科には当時決まった校舎をもつ学校は存在せず、学生教育は海軍大学校でおこなっていた。要するに塚原はここではっきりと航海屋の仲間入りをすることになったのである。
その後はまず一等駆逐艦海風乗組に発令される。当時の艦船令では駆逐艦の職員としては駆逐艦長と乗組しか規定されていないため辞令では乗組とされているが実際には航海長を任されていただろう。砲艦最上、工作船関東の航海長をつとめたがこの時期に体調を崩したのかいったん待命となっている。やがて巡洋艦千歳航海長に復帰し、さらに巡洋戦艦伊吹航海長に補せられるがすぐに海軍大学校甲種学生(第18期生)を命じられて艦隊を離れる。2年の学生を終えると同時に海軍少佐に進級(大正9(1920)年12月1日)し、第二艦隊参謀に補せられる。長官は鈴木貫太郎だった。
参謀勤務は短期間で終わり、横須賀航空隊附に発令されてここから塚原と航空の関わりが始まる。当時は搭乗員教育も模索が続いており、候補者を臨時航空術講習部部員に指定して横須賀航空隊で教育するという形式がとられた。部隊である航空隊の片手間で教育がおこなわれていたのである。
一通りの教育を終えると海軍省軍務局勤務(辞令は横須賀鎮守府附)、海軍軍令部参謀をつとめて大正13(1924)年12月1日に海軍中佐に進級した。欧米各国に視察に派遣されたが当時は第一次世界大戦のあとで航空の重要性はある程度認識されてはいたがその運用については模索が続いており、それにともなって機体そのものについても試行錯誤が繰り返されていた。
帰国すると航空母艦鳳翔の副長に補せられる。日本で最初の空母である鳳翔は実験的な性格が強く、実運用を通じて設備を改良している状態だった。昭和に入って海軍省の外局として海軍航空本部が独立すると、教育計画を担当する教育部に配属される。まもなく全体の事務を統括する総務部の部員に移り、2年間つとめた。昭和4(1929)年12月1日に海軍大佐に進級するといったん巡洋艦大井艦長として艦隊勤務をこなしたあと、ジュネーブで開催された軍縮会議の全権随員を命じられて渡欧する。陸軍を含む一般軍縮をめざして国際連盟が提議したものだがドイツの脱退を契機に議論は停滞しやがて成果を産むことなく終了した。帰国するとふたたび航空関係に戻り、海軍航空廠総務部長をつとめたあと航空母艦赤城艦長に補せられる。赤城は改造前の三段甲板状態で上海事変の経験を経て能力不足が明らかになった時期だった。やがて赤城は全通甲板に改装されることになる。
第二聯合航空隊司令官
ふたたび航空本部に戻ると本部長の補佐役ともいうべき総務部長に就任する。3代にわたる航空本部長、塩沢幸一、山本五十六、及川古志郎に仕えているあいだの昭和10(1935)年11月15日に海軍少将に進級した。日中戦争が始まると航空部隊も中国大陸に出征する。中国海軍艦艇は早く壊滅して海軍の役割は縮小したが、航空部隊はその用途が広いだけに敵海軍が壊滅しても出番が減ることはなくむしろ求められる任務は広がっていた。鎮守府所属の航空隊や母艦航空隊が大陸に派遣され、臨時編成された聯合航空隊の指揮下に入って空襲や航空撃滅戦を繰り広げていた。年度末の定期異動でいったん艦隊の航空戦隊司令官に転出した塚原だったが、開戦から戦い続けてきた現地司令官の三並貞三とその地位を交換して戦地に出ることになる。途中組織の改編があって肩書きの変更はあったが2年近くに渡り中国大陸で苦しい航空戦を指揮し続けた。
塚原がようやく帰還したのは、皮肉なことに中国空軍の奇襲を受けて基地が爆撃され、重傷を負ったためだった。塚原は右腕を失ない、交代して軍令部出仕に置かれる。負傷してまもない昭和14(1939)年11月15日には海軍中将に進級した。復帰した塚原は朝鮮の鎮海要港部司令官に親補される。それなりに格は高いが激務とは言えず、後方にあって直接戦闘を指揮する必要がないためリハビリに適していたと考えられたのかもしれない。
第十一航空艦隊司令長官
日中戦争で航空隊を陸上基地から集中運用するという初めての経験を積んだ日本海軍は、対米戦争を睨んで基地航空隊を集約した第十一航空艦隊を編成した。日本海軍史上はじめての軍艦を持たない艦隊であった。南部仏印進駐を経て日米戦争が俄然現実味を増すと、聯合艦隊はその編成を大幅に強化して備えた。その一環として第十一航空艦隊司令長官に中国での指揮経験が豊富な塚原が親補された。
太平洋戦争の開戦冒頭、第十一航空艦隊は台湾や仏印に展開し、フィリピンの米軍を攻撃するのとともに、マレー方面にも攻撃を加え、シンガポールから出撃してきたイギリス戦艦プリンスオブウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した。台湾からフィリピンを攻撃できる見通しが立ったことで、大型空母はすべて真珠湾攻撃にあてることができた。開戦目的の筆頭である資源地帯の確保にむけて塚原の第十一航空艦隊はその尖兵となって貢献した。
第一段作戦が終了したあと、第十一航空艦隊は内地に帰還して休養と再編にあたっていた。ミッドウェー海戦には一部を除いて参加しなかった。しかしガダルカナルに米軍が来襲すると、まず動けるのは塚原の第十一航空艦隊だった。ラバウルに進出した塚原は航空戦を指揮する。しかしガ島戦の困難さはこれまで経験してきた戦いとは段違いだった。慣れない南方生活もあり、マラリアに倒れた塚原は草鹿任一と交代して帰還する。療養の上復帰した塚原はいよいよ戦争の主役となった海軍航空を支える航空本部長に就任する。
南東方面での航空消耗戦を戦いながら、中部太平洋方面での防衛力強化を進めるという難しい任務は思うように進められなかった。陸軍と資材の奪い合いになり、機体の増産に努めたが消耗を埋めることはできなかった。昭和18(1943)年から19(1944)年という戦争の真っ最中に海軍航空行政を任されることになるがやりたいことのどれくらいが実現できただろうか。
昭和19(1944)年2月に嶋田繁太郎海軍大臣が軍令部総長を兼任すると、軍令部次長を2人制とすることになり塚原が航空本部長を兼ねたまま軍令部次長に補せられた。もともと開戦前から次長をつとめていた伊藤整一は塚原の3期下なので塚原が軍令部のナンバーツーということになる。しかし塚原は中佐以来の軍令部勤務でどれだけ作戦に関与できたか疑問である。なお軍令部次長補職と同時に軍事参議官に親補されているのは陸軍が二人目の参謀次長に大将をあてたのに対抗したものだろうか。しかし7月に嶋田大臣が失脚すると次長2人制は廃止され、航空本部長に専念することとなった。結果としてこの次長兼務は塚原の経歴のプラスにもマイナスにもならなかった。
昭和19(1944)年9月に横須賀鎮守府司令長官に移り、厳しい時期を過ごした航空本部長から解放されて今度は首都周辺の防備計画にあたることになる。この年の春には同期生の沢本頼雄が大将に進級しており、塚原もすでに中将6年目となり、大将進級は目前だった。しかし1期下で海軍次官に就任していた井上成美は「戦に負けて大将だけできるなんて滑稽だ」と大将進級の停止を米内光政海軍大臣に進言していた。これはもっばら井上本人のことを想定しておこなわれた発言だが、そのとばっちりを受けたのが塚原で、塚原の進級も井上とともにいったん棚上げということになってしまう。塚原は近しい友人にそれをぼやいていたという証言がある。
結局、終戦の年の5月になって米内大臣は井上次官を更迭し、その引き換えに大将に進級させた。1期下の井上が進級したので、塚原にはあわせて大将に進級するか予備役になるかの二者択一しかない。ただしその選択をするのは塚原本人ではなく海軍大臣の米内である。塚原は井上と同時に大将に進級した。慣例的には横須賀長官にとどまることも可能だったはずだが、あわせて実施された艦隊や鎮守府の長官レベルの若返りの一環として長官を戸塚道太郎に譲って軍事参議官に退いた。戸塚はかつて中国大陸でともに航空戦を指揮した仲であった。それからまもなく終戦をむかえ、復員が進むと塚原もまず待命となり昭和20(1945)年10月15日に58歳で予備役に編入された。
塚原二四三は昭和41(1966)年1月10日に死去した。享年80、満78歳。海軍大将従三位勲一等功二級。
おわりに
塚原二四三は名前が変わっていることもあり、開戦時からガ島戦にかけての第十一航空艦隊長官として知られています。また隻腕の提督としても知られていますね。ただ、戦争後半の事績はあまり知られていないのではないでしょうか。井上成美と並んで最後の海軍大将であります。
ウィキペディアの経歴の中で海軍大学校乙種学生について記述があるのにその次の専修学生に触れていないのはなぜでしょう。専門を決めることになる専修学生をスルーして、その前提に過ぎないいわば教養課程である乙種学生を特筆するのは自分としては理解に苦しみます。想像するに、専修学生の内容がわからなかったので無視したのでしょうか。選科学生と混同したのかもしれません。当時の海大専修学生はのちの航海学生相当→航海学生は他の術科の高等科学生にあたる→砲術や水雷術の高等科学生はその直前に海大乙種学生を経験する→乙種学生の科目の内容は語学、数学、物理学などの一般教養、という知識がないのでしょう。
さて次回は誰にしましょうか。いよいよ残りは4名になりました。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は塚原が艦長をつとめた空母赤城)
附録(履歴)
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