見出し画像

海軍軍人伝 大将(12) 塩沢幸一

 これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は塩沢幸一です。
 前回の記事は以下になります。

イギリス駐在武官

 塩沢しおざわ幸一こういちは明治16(1883)年3月5日に長野県伊那に生まれた。実家は滋養強壮で知られる養命酒の蔵元である。松本中学を経て海軍兵学校に入校し、日露戦争が真っ最中だった明治37(1904)年11月14日に第32期生192名の次席として卒業し海軍少尉候補生を命じられた。首席はほり悌吉ていきちである。捕獲ロシア船を編入した韓崎丸からさきまるで日本近海を巡る実習航海をおこなうと艦隊に配属される。塩沢の配属は戦艦朝日あさひだった。日本海海戦には一番下っ端の士官として参加し、戦争も終わりが見えた明治38(1905)年8月31日に海軍少尉に任官した。
 平時体制に復帰して年が明けるとこれもロシアから捕獲した姉川丸あねがわまるに乗り組む。まもなく軍艦籍に正式に編入されて通報艦姉川あねがわと改名した。駆逐艦ひびき乗り組みを経て、初級将校の必須科目だった砲術学校と水雷学校の普通科学生課程を受けている間の明治40(1907)年9月29日に海軍中尉に進級した。戦艦三笠みかさ乗り組み、通報艦千早ちはや分隊長を歴任して明治42(1909)年12月11日に海軍大尉に進級する。戦艦相模さがみ分隊長のあと、砲術学校高等科学生に進み鉄砲屋に仲間入りする。横須賀鎮守府で所属艦船を指揮して防御にあたる予備艦隊の参謀に補せられたあと、巡洋艦利根とね分隊長を経て今度は佐世保で予備艦隊参謀をつとめる。
 砲術学校教官をつとめたあと、大尉の末年から少佐の一年目にかけて甲種学生(第13期生)として海軍大学校に学んだ。海軍少佐への進級は大正3(1914)年12月1日である。卒業後は海軍省軍務局に勤務した。すでに第一次世界大戦は2年目に入っており、極東情勢は安定しているが翌年には英独が激突したジュトランド海戦が起きている。ドイツによる無制限潜水艦戦の全面的な開始とアメリカの参戦という情勢の激変を受けて塩沢はヨーロッパに派遣されることになる。イギリス戦艦レゾリューション、ついでロイアルオークに観戦武官として乗り込んだ。第一次大戦では巡洋戦艦クイーンメリーの下村しもむら忠助ちゅうすけ、戦艦バンガードの江渡えと恭助きょうすけが戦死しており必ずしも安全とは言えなかったが無事に任務を終えて退艦したのは休戦も間近となった頃だった。その後も1年あまりイギリスにとどまってドイツとの和平の成り行きを見届け、大正8(1919)年12月1日に海軍中佐に進級して帰国した。
 教育本部第一部部員と第一艦隊参謀にそれぞれ短期間補せられたあと、海軍大学校教官として2年あまり教鞭をとる。海軍省軍務局で演習や検閲(ここでいう検閲は設備などの点検のこと)を担当する第二課長に補せられ、さらに大正12(1923)年12月1日には海軍大佐に進級するのと同時に編成や装備計画を担当する第一課長に移った。この間、海軍大臣は加藤かとう友三郎ともざぶろうから財部たからべたけしに代わり、その直後には関東大震災も起きている。霞ヶ関にあった海軍省は幸い火災に遭うことはなかった。
 はじめて20cm砲を搭載して建造中の重巡洋艦古鷹ふるたかの艤装員長に補せられて就役とともに艦長をつとめる。年度替わりで古鷹を降りると二度目となるイギリス勤務を命じられ、ロンドンの日本大使館で海軍武官をつとめた。塩沢が初代艦長をつとめた古鷹をきっかけとして各国海軍では条約型重巡洋艦の建艦競争が始まっていた。イギリスも例外ではなく塩沢は強い関心をもって観察する。

第一遣外艦隊司令官

 イギリスに2年滞在して昭和3(1928)年12月10日に海軍少将に進級すると同時に帰国を命じられる。帰国後はしばらく無任所に置かれたが第二艦隊参謀長を3ヶ月だけつとめる。年度途中の半端な時期に異動となったのは、ロンドン会議の全権随員として軍務局長の左近司さこんじ政三せいぞうが出張することになり、その後任に塩沢の同期生の堀悌吉が移ることになって第二艦隊参謀長があいたその穴を埋めたのである。このとき短期間ながら仕えた長官は大角おおすみ岑生みねおである。年度が変わると塩沢は聯合艦隊参謀長に横滑りする。長官は山本やまもと英輔えいすけだった。東京はロンドン条約問題で揺れていたが、別天地の艦隊で、しかも黒子役の参謀長とあって意見を聞かれもしなかった。イギリス滞在が長かった塩沢は条約には肯定的だったようだ。
 聯合艦隊参謀長は1年で交代となるが東京には戻れず、中国大陸を担当する第一遣外艦隊司令官に補せられた。旧式巡洋艦を旗艦として河用砲艦で揚子江の警備にあたるのが主な任務である。当時の中国大陸は蒋介石しょうかいさきの北伐が完成したあとでひとまず安定していた。しかし逆にそれに危機感を抱いた関東軍は満州事変を引き起こす。翌年に戦火が上海に飛び火すると海軍も本格的に介入するが、もともとこの地域を担当していた第一遣外艦隊が保有していた戦力では荷が重かった。新たに第三艦隊が編成されて野村のむら吉三郎きちさぶろうが司令長官に親補され、上海事変の海軍側の最高指揮官となる。本国から戦力が派遣されるとともに第一遣外艦隊は第三艦隊にそのまま編入された。上海事変自体は1ヶ月ほどで停戦となるが第三艦隊はその後も存続することになり、第一遣外艦隊はやがて第三艦隊隷下の第十一戦隊に改編される。しかしそれはのちのことで塩沢は上海事変がひと段落するとその任を解かれて帰国し、休養ののち今度は朝鮮の鎮海要港部司令官に補せられた。鎮海は対馬海峡を抑える要衝だが前任者である米内よない光政みつまさが「本ばかり読んでいた」と振り返ったように激職とはとても言えない。
 昭和8(1933)年11月15日に海軍中将に進級したが鎮海要港部にとどめられた。しかし年が明けると軍令部次長に補職されたばかりの松山まつやましげるが体調を崩して交代することになる。航空本部長の加藤かとう隆義たかよしが軍令部次長となり、玉突き式に航空本部長に補せられたのが塩沢である。海軍の中枢で勤務するのは軍務局第一課長以来で8年半ぶりのことである。塩沢が本部長の時期に本格的に開発が始まったのが96式艦戦や96式中攻といった日本が世界レベルに達したことを示す機体だった。
 本部長を同期生の山本やまもと五十六いそろくに譲って舞鶴要港部司令官に転出し、さらに翌年には佐世保鎮守府司令長官に親補された。同期首席の堀悌吉はすでにいわゆる大角人事で予備役になっており塩沢は事実上のクラスヘッドだった。日中戦争が始まって華南方面を担当する第五艦隊が新たに編成されるとその司令長官に親補され、広州湾への陸軍上陸を護衛し広東攻略を支援した。いったん帰国するが艦政本部長の上田うえだ宗重むねしげが現職のまま病死したためその後任となって艦政本部長に補職される。内閣の交代で同期生の吉田よしだ善吾ぜんごが海軍大臣に就任すると、吉田よりも順位が高い塩沢が海軍大臣の部下になる艦政本部長にとどまるのは具合が悪く、軍事参議官に移ることになった。その年、昭和14(1939)年11月15日には定期人事異動により海軍大将に親任された。塩沢の同期生からは他に吉田、山本、嶋田しまだ繁太郎しげたろうと塩沢とあわせて4名が大将になっているが塩沢の進級はひとりだけ早く、残り3人の進級は翌年になる。
 翌年9月に横須賀鎮守府司令長官に親補されたのは海軍大臣の吉田が交代することになり、その後任の及川おいかわ古志郎こしろうが横須賀から移ることになったその空席を埋めたのである。翌年には支那方面艦隊から帰国した同期生の嶋田に横須賀を譲って軍事参議官に戻る。どちらかと言えば海軍省での勤務が多かった塩沢だが、太平洋戦争に入るころには大臣の嶋田と次官の沢本さわもと頼雄《よりお》が海軍省をがっちり握っていて塩沢の出番はなかった。開戦後も軍事参議官にとどまり、同期生の山本五十六が戦死して国葬になるとその司祭長をつとめた。しかし塩沢自身もすでに体調を崩していた。

 塩沢幸一は昭和18(1943)年11月17日に死去した。享年61、満60歳。海軍大将従二位勲一等功二級。

海軍大将 塩沢幸一 (1883-1943)

おわりに

 塩沢幸一は山本五十六の同期生である大将の中では一番無名でしょうね。開戦前に第一線を退いてしまっているので仕方ないでしょう。他人の穴埋めばかりしているように見えますが、よく言えばなんでもこなせる、悪く言えば器用貧乏ということでしょうか。

 さていよいよ残り数名ですが次回は誰にしましょうか。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は塩沢が観戦武官として乗艦したイギリス戦艦ロイヤルオーク)

附録(履歴)

明16(1883). 3. 5 生
明34(1901).12.16 海軍兵学校入校
明37(1904).11.14 海軍少尉候補生 韓崎丸乗組
明38(1905). 1. 3 朝日乗組
明38(1905). 8.31 海軍少尉
明39(1906). 2.16 姉川丸乗組
明39(1906). 7.16 響乗組
明40(1907). 8. 5 海軍砲術学校普通科学生
明40(1907). 9.29 海軍中尉
明40(1907).12.16 海軍水雷学校普通科学生
明41(1908). 4.20 三笠乗組
明42(1909). 4. 1 千早分隊長心得
明42(1909).10.11 海軍大尉 千早分隊長
明42(1909).11. 1 相模分隊長
明42(1909).12. 1 海軍大学校乙種学生
明43(1910). 5.23 海軍砲術学校高等科学生
明43(1910).12. 1 横須賀予備艦隊参謀
明44(1911). 1.23 利根分隊長
明44(1911).12. 1 佐世保予備艦隊参謀
大元(1912).12. 1 海軍砲術学校教官兼分隊長/海軍経理学校教官
大 2(1913).12. 1 海軍大学校甲種学生
大 3(1914).12. 1 海軍少佐
大 4(1915).12.13 海軍省軍務局局員(第一課)
大 6(1917). 6. 1 英国駐在被仰付
大 6(1917).10. 2 英 Resolution 乗組
大 6(1917).11.21 英 Royal Oak 乗組
大 7(1918).10.10 退艦
大 7(1918).12. 1 英国駐在帝国大使館附海軍武官補佐官
大 8(1919). 4. 1 英国駐在被仰付
大 8(1919).12. 1 海軍中佐 帰朝被仰付
大 9(1920). 4.13 海軍教育本部部員(第一部)
大 9(1920).11. 1 第一艦隊参謀
大 9(1920).12.17 海軍大学校教官
大12(1923). 3. 1 海軍省軍務局第二課長
大12(1923).12. 1 海軍大佐 海軍省軍務局第一課長
大14(1925). 5.15 古鷹艤装員長
大15(1926). 3.31 古鷹艦長
大15(1926).12. 1 英国駐在帝国大使館附海軍武官/造船造兵監督長
昭 2(1927). 4. 5 英国駐在帝国大使館附海軍武官/海軍艦政本部造船造兵監督長
昭 3(1928).12.10 海軍少将 帰朝被仰付
昭 4(1929). 6. 1 海軍軍令部出仕
昭 4(1929). 8.15 第二艦隊司令部附
昭 4(1929). 9. 6 第二艦隊参謀長
昭 4(1929).11.30 第一艦隊参謀長/聯合艦隊参謀長
昭 5(1930).12. 1 第一遣外艦隊司令官
昭 7(1932). 6. 6 海軍軍令部出仕
昭 7(1932).10. 1 海軍軍令部出仕/海軍省出仕/軍事普及部委員長
昭 7(1932).12. 1 鎮海要港部司令官
昭 8(1933).11.15 海軍中将
昭 9(1934). 1.17 海軍航空本部長
昭10(1935).12. 2 舞鶴要港部司令官
昭11(1936).12. 1 佐世保鎮守府司令長官
昭12(1937).12. 1 軍令部出仕
昭13(1938). 2. 1 第五艦隊司令長官
昭13(1938).12.15 軍令部出仕
昭14(1939). 1.27 海軍艦政本部長/海軍将官会議議員
昭14(1939). 8.30 軍事参議官
昭14(1939).11.15 海軍大将
昭15(1940). 9. 5 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
昭16(1941). 9.10 軍事参議官
昭18(1943).11.17 死去

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?