海軍軍人伝 大将(11) 名和又八郎
これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は名和又八郎です。
前回の記事は以下になります。
海軍省人事局第二課長
名和又八郎は文久3(1863)年12月22日に若狭小浜藩士である武久家に生まれた。生まれたのは江戸である。同じ小浜藩士の名和家の養子になる。名和家の家紋は帆掛船で、南北朝時代の有名な名和長年と同じだが実際の系譜関係はもちろん不明である。岡田啓介や加藤寛治と同じ福井県出身となるが彼らは越前福井藩出身なので同郷という意識は薄かった。西南戦争後に東京築地の海軍兵学校に入校して海軍将校を目指した。同期生には山下源太郎などがいる。実習のためにコルベット龍驤に乗り組み、明治16(1883)年末から遠洋航海に出発する。ニュージーランドを経由して南米西海岸を巡り、ハワイに寄港して帰国する日程だったが、特に帰路に乗組員の間に脚気が広がって死者を含む多くの患者を出して大きな問題となった。これがきっかけとなって兵食の改善が進むことになる。
ともかくも遠洋航海を終えて海軍少尉補を命じられたのは明治16(1883)年10月15日で、名和の成績は第10期生27名中17位というものだった。首席は加藤定吉である。通報艦春日に配属され、さらに装甲コルベット扶桑に移ったあと、いったん兵学校に戻って教育を受ける。このころは術科学校は整備されておらず実艦での勤務と兵学校での教育を織り交ぜる方式が広くとられていた。明治19(1886)年4月7日に海軍少尉に任官する。ふたたび兵学校での教育を終えてコルベット葛城、コルベット筑波の航海士をつとめた。筑波は明治初期から遠洋航海にたびたびあてられ、名和も航海士として第14期生の生徒の航海に同行することになる。北米西海岸をサンフランシスコからパナマまで南下し、さらに南太平洋のタヒチを訪れてからハワイに寄港しながら帰国するという10カ月に及ぶ行程だった。
帰国するとちょうど広島県江田島に移った海軍兵学校で運用術教官をつとめた。名和の専門ははっきりしないが航海や運用関係の勤務が比較的多い。教官をつとめていた明治21(1891)年8月28日に海軍大尉に進級し(当時海軍中尉の階級はない)、2年近い教官勤務を終えるとふたたび筑波に分隊長として乗り込む。筑波は今度も遠洋航海にあてられることになり、第16期の候補生を乗り組ませて清国方面からハワイを訪れた。第16期生は海軍機関学校が廃止されて兵学校に編入されたクラスで、前後のクラスと違って卒業後の候補生になってから遠洋航海をおこなっている。こうした特別な場合を除いて遠洋航海が卒業後の候補生時代におこなわれるようになるのは第24期生以降である。
巡洋艦浪速、コルベット海門に短期間乗り組んだ後、新設された海軍参謀部で秘書官や副官に相当する部長伝令使に補せられる。海軍参謀本部を陸軍から独立させて設立された海軍参謀部は、作戦計画を担当する組織でのちに軍令部と呼ばれるようになる。当時の部長は伊藤雋吉だったがこれは創設時の短期間のみでまもなく井上良馨に代わる。井上が佐世保鎮守府長官に移るとよほど気に入られたのかそのまま伝令使に引っ張られる。しかし公私混同とみられたのかすぐに巡洋艦松島分隊長に転じた。
日清戦争では松島は聯合艦隊の旗艦をつとめ、司令長官の伊東祐亨が座乗した。黄海海戦では主隊の先頭に立ち大きな損傷を被った。威海衛攻略、台湾平定に参加して帰国。明治30(1897)年12月1日に海軍少佐に進級してコルベット金剛分隊長に、翌年10月1日には海軍中佐に進級して同艦の副長に補せられた。短期間で進級が繰り返されたのは、11年間廃止されていた海軍中佐の階級が前年復活したのにともなう調整の意図があるだろう。翌年には海軍大臣秘書官として山本権兵衛海軍大臣に仕えることになる。1年つとめてイギリスに派遣されたのは当時のイギリスに主に発注されていた艦艇を受け取って日本まではこぶためだった。戦艦初瀬の副長として無事に日本まで送り届け、さらに1年間戦力化に励んだあと、開庁してまもない舞鶴鎮守府参謀に補せられて東郷平八郎長官の副官を兼ねた。
明治36(1903)年9月26日に海軍大佐に進級して海軍省人事局第二課長に補せられる。第二課長は功績や恩給を担当する部署で特に戦時には重要な役割を果たす。もっとも日露開戦直前に人事局の課制が廃止されて人事局員として日露戦争を過ごすことになる。東京を離れて艦隊に出たのは日露戦争が終わったあとのことだった。
海軍教育本部長
装甲巡洋艦出雲、巡洋艦厳島の艦長をつとめたあと、呉工廠で建造されていた装甲巡洋艦生駒の建造を艦長予定者として監督し、就役すると正式に艦長に補せられる。もはや艦隊勤務は充分ということで東京の海軍軍令部に補されて情報を担当する第四班長を命じられた。海軍軍令部長は東郷平八郎、次長は三須宗太郎だった。明治41(1908)年8月28日に海軍少将に進級する。部長と次長がそれぞれ伊集院五郎,藤井較一に交代してまもなく名和も呉鎮守府参謀長に転出する。司令長官は加藤友三郎である。このペアで2年つとめた後、中国大陸を担当する第三艦隊司令官に補される。当時第三艦隊は小規模な部隊で司令官も親補職ではなかった。名和も少将に過ぎなかったがまもなく大正元(1912)年12月1日に海軍中将に進級する。辛亥革命直後のことであり政治状況は混乱していたが逆に言えば全面的な衝突が起きる可能性は小さい。中央政府は弱体で、各地に割拠する軍閥への個別対処に追われることになる。
ジーメンス事件が発覚するとまず当事者が罷免されてそれにともなう人事異動が起こる。名和はまずこのタイミングで東京に呼び戻され、さらに内閣が倒れて海軍大臣が更迭されると海軍教育本部長に補せられた。教育本部は海軍省の外局だが教育全般を統括している。平時の軍隊の役割はほぼ教育に終始しその比重は非常に大きい。陸軍では天皇直隷の教育総監部を置いていた。海軍教育本部長はそれには及ばないがその権限はかなり大きかった。
まもなく第一次世界大戦が始まり、ジーメンス事件は世間から忘れられていく。ドイツ租借地だった青島を攻略した同期生の加藤定吉が凱旋すると名和がその跡を継いで第二艦隊司令長官に親補されるが、戦時中とはいいながら極東情勢は安定しており艦隊は無風だった。名和が第二艦隊を指揮していた1年たらずの間に相方となる第一艦隊の司令長官は加藤友三郎、藤井較一、吉松茂太郎(いずれも海兵7期生)と交代する。大正5(1916)、6(1917)年度に舞鶴鎮守府司令長官をつとめたあと、首都東京を守る横須賀鎮守府司令長官に親補される。筆頭鎮守府だった横須賀の長官をつとめればかなりの確率で大将への昇進が期待できる。実際、大正7(1918)年7月2日に海軍大将に親任された。この時には同期生の加藤定吉、山下源太郎を含めて一挙に6名が同時に海軍大将に進級している。
横須賀鎮守府はほとんどの場合「あがり」のポストになる。ましてやこの大正後半は高級士官の進級が渋滞気味だった。すでに功なり名を遂げたと言える名和は、充分とも言える2年半横須賀長官をつとめ、さらに2年間軍事参議官をつとめて待命となり、大正12(1923)年3月31日に予備役に編入されて59歳で現役を去った。
名和又八郎は日露戦争中の昭和3(1928)年1月12日に死去した。享年66、満64歳。海軍大将従二位勲一等功四級。
子の名和武は東京帝大を卒業して技術者となり海軍技術中将。その子友哉は海軍兵学校を卒業して終戦時は海軍大尉だった。
おわりに
名和又八郎も大正時代後半の大将の通例として無名です。日露戦争でも実戦に参加したわけでもないので仕方ないでしょう。
さて次回は誰にしましょうか。そろそろ残り少なくなってきました。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は初代艦長をつとめた装甲巡洋艦生駒)
附録(履歴)
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