海軍軍人伝 大将(14) 豊田貞次郎
これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は豊田貞次郎です。
前回の記事は以下になります。
山城艦長
豊田貞次郎は明治18(1885)年8月7日に紀伊田辺藩士の家に生まれた。田辺藩は御三家の和歌山藩の付家老の家系で徳川時代は将軍の直臣とは扱われず、それが認められたのは明治政府によってであった。海軍兵学校に入校して海軍将校をめざした。在校中に日露戦争が始まり、終戦とほぼ同時に卒業する。明治38(1905)年11月28日に第33期生171名の首席として卒業し海軍少尉候補生を命じられた。入校から卒業まで首席で通すという秀才だった。終戦をうけて戦時体制は平時体制に移行し、その一貫として練習艦隊が編成された。島村速雄司令官のもとに三景艦松島、厳島、橋立が編入され、豊田は厳島に乗り組みを命じられる。2月に日本を発った遠洋航海は清国、オーストラリア、東南アジアを巡る半年近い航海で帰国は8月になった。
最初の配属は戦艦香取だった。明治39(1906)年12月20日に海軍少尉に任官して巡洋艦千歳に移り、さらに駆逐艦弥生乗組を経て、初級将校が必ず経験した砲術学校と水雷学校の普通科学生を修了した。学生だった明治41(1908)年9月25日に海軍中尉に進級し、戦艦敷島に乗り組んだ。明治43(1910)年度には練習艦隊附の肩書きで遠洋航海に同行する。中尉の豊田はいわば司令部の下働きだが、第37期生の候補生とともにオーストラリア、東南アジアを巡る5ヶ月の遠洋航海を経験している。帰国するといったん戦艦薩摩に配属されたあと、明治43(1910)年12月1日に海軍大尉に進級すると砲術学校の高等科学生に進んで花形の砲術屋に仲間入りした。
砲術学校を修了するとそのままイギリス駐在を命じられる。当時世界最大の海軍をもつイギリスは派遣先としてはもっとも優秀な人材があてられた。豊田はオックスフォード大学に通った。当時英独は建艦競争を繰り広げており、イギリス海軍は超弩級主力艦を続々と就役させていた。イギリス滞在は2年半におよび、皇太子暗殺でオーストリアとセルビアのあいだが緊張していた第一次世界大戦前夜に帰国を命じられた。帰国すると新鋭巡洋戦艦比叡の分隊長に補せられる。翌大正5(1916)年度には軽巡洋艦で編成された第四戦隊の参謀に移った。司令官は井出謙治だった。大正5(1916)年12月1日に海軍少佐に進級するがその翌年にドイツが無制限潜水艦戦を宣言すると連合国の一員であった日本としても対応するための戦力を提供することになった。日本海軍は第一から第三の特務艦隊を編成して各方面に派遣したが、そのうちオーストラリア・ニュージーランド間に派遣されたのが第三特務艦隊で、第四戦隊を基幹とした。豊田を含む第四戦隊司令部が第三特務艦隊司令部に横滑りする。司令官はその前年に山路一善に代わっていた。シドニーに拠点を置いて活動を始めたがドイツには地球の反対にあたる南太平洋まで手を伸ばす余裕はなく、第三特務艦隊はまもなく撤退することになる。
帰国した豊田は海軍大学校甲種学生(第17期生)を命じられて2年間の高級指揮官教育を受ける。少佐2年目での甲種学生はかなり遅い部類になる。大尉時代にオックスフォード大学に留学して艦隊勤務が不足していたのが影響しただろうか。海軍大学校甲種学生も優等で終えると海軍省軍務局局員としていよいよ中央官庁での勤務を始めた。このときの軍務局勤務は3年あまりに及ぶ。海軍大臣は加藤友三郎だが局員の豊田との接点がそれほどあったとは思えない。大正9(1920)年12月1日に海軍中佐に進級している。
艦隊に出て巡洋戦艦金剛の副長をつとめたあと、ロンドンの日本大使館附武官を命じられてふたたびイギリスに渡る。今度のイギリス滞在も3年に及んだ。大正15(1926)年12月1日に海軍大佐に進級してまもなくいったん帰朝命令を受けたが、おりからジュネーブで開かれた軍縮会議の全権随員を命じられてスイスに渡ることになり帰国はさらに半年延びる。全権は朝鮮総督の斎藤実だったが、結局この会議は成果を生まずに終わった。
帰国後は、内規で将官に昇進するための部隊勤務年限を稼ぐために巡洋艦阿武隈と戦艦山城艦長を1年ずつつとめた。豊田のようなエリート砲術屋にとって戦艦の艦長職は憧れであると同時に、将来にむけて箔をつけるためにも経験しておきたい職だった。しかし艦船勤務から長年離れていた豊田にいきなり数万トンの戦艦の操艦は荷が重い。こういう場合、リハビリを兼ねてまず手頃な巡洋艦で勘を取り戻させるということがあった。阿武隈艦長にはそういう意味があったのだろう。
広海軍工廠長
豊田は年度末を待たずに山城をおりた。ロンドンで開催されることが決まった軍縮会議の全権随員にあてられ、みたびイギリスに渡ることになったのである。この会議は日本海軍をふたつに割る論争を引き起こして将来に禍根を残したが豊田はこの件についてはっきりした意見を述べることなく中立の立場に終始した。昭和5(1930)年12月1日に海軍少将に進級すると横須賀鎮守府参謀長に補せられて大角岑生長官を支えた。翌年にはいよいよ海軍省の筆頭局である軍務局の局長に補せられる。次官から大臣をめざす豊田にとっては待望の辞令だった。
前途洋々に見えた豊田だったが、わずか半年で更迭されてこれまで無縁の航空本部出仕にあてられる。さらに年度末には広島県の広海軍工廠長に移る。広工廠は呉工廠から分離した航空機専用工廠で豊田のような大臣をめざすエリート士官があてられるような職場ではなかった。一連の人事は明らかに左遷だが、その事情についてはっきりした記録は残っていない。伝えられているのは、軍令部長に就任した伏見宮について何か不用意な発言をしたのが宮の耳に入り、激怒した伏見宮の指示で交代させられたが皇族をはばかって記録は残されなかった、というものである。その真偽はともかく豊田はここでいったん挫折した。「豊田は終わった」とも言われたが豊田自身はこの機会に技術について改めて学ぶことになりそれが将来に生きてくる。いかにも秀才の豊田らしい。
広に1年半いてようやく東京に戻ったが補職は本省ではなく外局の艦政本部総務部長だった。昭和10(1935)年11月15日に海軍中将に進級したのは、首脳部に豊田を温存しておこうとする者がいて、さらに伏見宮の怒りもそろそろほとぼりが冷めてきていた現れと言える。呉工廠長に移されたのはそうしたせめぎあいの産物で、無条約時代を控えて重要性を増しながら、地方の技術庁である海軍工廠というどちらとも解釈ができる人事だった。この前後の海軍大臣はかつて横須賀で上司だった大角岑生になるが関係があったかどうかはわからない。
呉海軍工廠長のあいだに日中戦争がはじまり、のちに大和と命名される戦艦の建造も始まった。こうした実績をひっさげてついに佐世保鎮守府司令長官に親補される。まだ本省には戻れていないが天皇直隷の親補職にまで返り咲いた。希望を取り戻した豊田は次に東京でのポストを望んだ。当時、海軍大臣は米内光政で次官は山本五十六だった。在任2年になろうかという山本が交代を考えていると聞いた豊田は早速山本に手紙を書いた。それを受け取った山本が部下に「面白い手紙が来ているから見せてやる」と示すとそこには「自分が現に親補職にあるからといって、次官になることを望まないということはありません」と書かれていたという。佐世保鎮守府司令長官は親補職だが、海軍次官はそうではない。次官になれば厳密には格下げになるのだが、自分はそんなことは気にしないからぜひ次官に、という自薦の手紙だった。山本は「豊田というのはこういうやつだ、よく覚えておけ」とコメントしたという。
この手紙が影響したのか、山本は結局交代せず、しかし豊田は次官は逃したが航空本部長として東京に復帰する。親補職から次官よりさらに格下の航空本部長とされた豊田がどう感じたかはわからないが、ひとまず東京に戻れたことでよしとしたのではないか。その翌年、ドイツとの同盟の議論に終始した平沼内閣が独ソ中立条約で吹っ飛ぶと海軍大臣と次官も交代することになる。次官は山本(32期生)から住山徳太郎(34期生)に引き継がれ、33期生の豊田は飛ばされてしまった。次官と航空本部長のあいだには直接の上下関係はないので問題はないのだが、豊田が面白いはずもない。
海軍次官
さらに雌伏すること1年、ヨーロッパでドイツがフランスを占領するといったんは鳴りをひそめたドイツとの同盟がふたたび浮上してきた。海軍大臣の吉田善吾は必死に抵抗したが圧力は激しく、疲弊した吉田は病に倒れた。大臣が及川古志郎に交代するのにあわせて住山次官も交代することになり、豊田が待望の次官に就任した。豊田はもともとドイツとの同盟には反対だったが、海軍省に入ってそれまでの経緯を改めて見直すと海軍単独で反対を貫徹するのは無理だと考えた。陸軍はもちろん世論や政府も同盟に傾いており、海軍がひとり反対してもいずれ押しきられる、最後まで反対したら海軍が浮いてしまう、そうならないためには消極的にでも賛成するしかない、と結論した豊田は自ら部内のとりまとめに動き出す。政府には「政府が責任を負うというなら積極的に反対はしない」と下駄を預け、部内では「このまま反対を続けたら国内が割れてしまう。海軍が悪者になる」と説明して同意を取りつけた。大臣をそっちのけに突き進む豊田は「豊田大臣」と陰で呼ばれるほどだった。聯合艦隊司令長官としてもし戦争が起きたら前面に立たされることになる山本は異論を唱えたが海軍大臣が決めたことには正面切って反対することはできなかった。豊田が次官に就任して一月もたたないうちにドイツとの同盟条約が調印された。
豊田は次官の権威向上を望み、次官室に歴代次官の肖像を掲げさせ、その最後に自分の肖像を置いた。のちに井上成美が次官になるとこれらの肖像は外される。
北部仏印進駐とドイツとの同盟締結で日米関係ははっきりと悪化した。ときの近衛文麿内閣は日中戦争の解決と対米交渉のためにも総動員による国力の増進をめざした。この路線をめぐって旧来の自由資本主義と統制主義の対立が商工省で起こり、商工大臣が辞任するという騒ぎになる。近衛首相は豊田に商工大臣への就任を求めた。普段から豊田と近衛のあいだに連絡があったことを示すが、現役海軍軍人である豊田には無理な相談である。しかし豊田は結局この申し出を受けた。豊田は及川大臣に辞表を提出し、あわせて大将への進級を要求した。及川は一度は拒否したが本人が辞めるというのを止めるわけにもいかず、大将に進級させた上で予備役に編入するという形で決着をつけた。海軍次官の免官、海軍大将への親任、予備役編入、商工大臣への親任という四種類の辞令が昭和16(1941)年4月4日付で同時に出されるという前代未聞、空前絶後の事態となる。古賀峯一は「豊田さんは出世のために海軍を踏み台にしたんだ」と評した。
こうして入閣した豊田だが近衛内閣はむずかしい立場に置かれていた。前年の仏印進駐のあと日米間の交渉が続けられていたが、その障害になっていたのが松岡洋右外務大臣の頑な態度だった。一切の妥協を拒否した松岡の態度は閣内からも批判が出るほどだったが、明治憲法下では首相に閣僚の罷免権はない。自主的な辞任を勧告するしかないのだが、拒否されてしまえば閣内不一致で総辞職に直結する。近衛は一計をめぐらし、交渉停滞を名目に総辞職を提議し閣僚の辞表をとりまとめて天皇に提出したがそのまま再組閣を命じられた。実はこの総辞職はあらかじめ松岡以外の閣僚に根回しした出来レースであり、松岡以外の閣僚は全員新しい内閣に留任した。新しい外務大臣には豊田が就任することになる。アメリカ大使としてワシントンにいた野村吉三郎は同じ海軍軍人で同郷の和歌山出身でもあり意思疏通に便利と考えられたと言われる。豊田は気が進まなかったようだが、このまま近衛内閣が崩壊したらせっかく海軍を辞めてまでして手に入れた大臣の地位が水の泡になると考えたのか引き受けた。しかしすでに日米関係は外務大臣の態度でどうにかなるような段階ではなかった。アメリカが要求する中国からの撤退は陸軍が受け入れるはずもなく、戦争か屈服かの二者択一を迫られた近衛首相は今度こそ本当に内閣を投げ出した。豊田も大臣の椅子を失った。最初の入閣から半年、外務大臣に就任してから3ヶ月のことだった。
それからすぐに太平洋戦争がはじまり、豊田はかつて左遷されていたころに学んだ知識を生かして日本製鉄の社長に就任した。重要な戦略物資である鉄の生産者として統制にも主導的な役割を果たした。戦争末期になって鈴木貫太郎内閣が成立すると軍需大臣として再度入閣するが軍需産業はすでに壊滅に近い状態だった。敗戦とともに総辞職してふたたび大臣の地位を失う。貴族院議員に選ばれるが公職追放にあって辞任した。戦後は主に製鉄業界で実業家として働いた。
豊田貞次郎は昭和36(1961)年11月21日に死去した。享年77、満76歳。海軍大将正三位勲一等。
おわりに
豊田貞次郎は評判の悪い人です。一年に満たない次官在任の間にいろいろと物議を醸す行いをしたのが大きいですが、もう少し時代が違えば有能な海軍大臣として知られることになったかもしれません。
同期生の豊田副武とは血縁関係がなくまったく赤の他人だそうですが結局ふたりが出世頭としてのこって「両豊田」と称されるようななります。もっとも性格は正反対だったようです。
さてウィキペディアには「海軍大学校で中断していた教育を再開」と書かれていてちょっと意味がわからなかったのですが、ひょっとしてこれは乙種学生を甲種学生の続きだと思ってるんじゃないのかなと思いつきました。乙種学生と甲種学生は特に関連はない別々の課程でもちろん両方受けている人も多いですがどちらかだけ(乙種のみ、あるいは甲種のみ)でも全然問題ないんですけどね。「大学校」という名称から「入学」から「卒業」まで一貫したカリキュラムがあると考えているのかもしれませんが、実際には独立した課程の集合で、イメージとしてはカルチャーセンターの各講座みたいなものです。もちろん内容はもっと高度だし時間も期間も長いのですが。以前から学歴のところに「海軍大学校卒業」とか書かれているのに違和感があったのですが、そういう感覚だったのかもしれません。
外務大臣の在任を6ヶ月としていますが、3ヶ月の誤りですね。文中に具体的な日付がないのでわかりにくいですが、入閣から起算すると確かに6ヶ月ですがそのうち最初の3ヶ月は商工大臣なのです。
さて次回は誰でしょう。残り三人なので流石に順番は決まっていますが、見てのお楽しみということで。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は豊田が艦長をつとめた戦艦山城の完成時)
附録(履歴)
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