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あれから10年。あの日、起きたこと

東日本大震災から、明日でちょうど10年。本当に早いものだ。

自分は子どもの頃、小学校の教科書で「関東大震災」という大きな地震が大正時代にあったことを知り、毎年9月1日、2学期の初日には小学校で必ず避難訓練が行われていた。

とてつもなく大きい地震で多くの犠牲者も出た、ということだけは知っていたけれど、どうせもう自分が生きてるうちはこんな大きい地震なんてくることはないんだろうなって、なぜか、漠然と思ってた。
だってそれまで、自分自身で大きな地震を経験したこともなかったから。

高校生になると音楽にハマり、当時、RCサクセションの忌野清志郎が原発をテーマにした曲を作ったのに、レコード会社がそれを発売禁止にしてしまったニュースに触れたことで、この社会には「原発」というアンタッチャブルな問題がある事を知る。

もちろんその前にチェルノブイリ原発の事故もあったから、原発は危ないものなのだという認識はあったけれど、これがなぜか政治に絡めた問題にもなり、社会を分断するものになるのだと、僕はあの時初めて、清志郎に教わった。

僕がだんだんとラディカルな話に興味が向くようになったきっかけは、間違いなくあの時だったのだと思う。

でも大地震と同じく、原発事故なんてさすがにもう起きないだろうと、やはりこれも漠然と思ってた。
政治的対立のツールとして原発問題はあるけれど、スリーマイルやチェルノブイリのような事故がまさかこの日本で起こるわけもないだろう、とも思っていた。

大地震は昔の話、原発事故は外国の話。僕はそんな風に、ずっと脳天気に暮らしていた。

しかし1995年1月17日、阪神淡路大震災が起きる。
あの日の朝、僕は当時付き合っていた彼女と駅で落ち合い、一緒に仕事先へ向かっていた。
出かける前にニュースで「関西で大きな地震が起きた」ことは知っていて、
「なんか、神戸がやばいらしいねぇ」くらいな会話を、電車の中で彼女とした記憶がある。

その時はまだ、まさかあそこまでの大規模な震災になるとは思わずに、浮かれて電車に乗っていた。大変なことになったと知ったのは、その夜、帰宅した後だった。

関東大震災級の震災が、自分が生きているうちに起きてしまった。

けど、、こんな言い方は語弊があるかもしれないけれど、関西で起きた地震だから、自分が体験したわけでもない。だからどこか自分ごととしてリアルに体感はせぬまま、やはりその後も、僕はのほほんと生きていく。

そして2011年、3月11日を迎えてしまった。

あの日の14時46分、僕は横浜駅近くの道を車で走っていて、ちょうど信号待ちの時。

車が急に大きく揺れ出した。最初は強風かな、それとも車のエンジンか何かがおかしくなったのかなと思ったのだが、「地震だ。しかもかなりデカい!」と気づいた時には、信号は大きく揺れ、ゴゴゴッという音がして、家屋や店先から人が次々に外へと出てきていた。
僕の車が止まっていたすぐ横のアパートのブロック塀が崩れ、地面からは水が溢れ出していた。

まだ、大きな揺れが続いている。その時僕は生まれて初めて大きな地震に遭い、生まれて初めて、命の危険を感じた瞬間だった。

そのうち、ナビで見れるTVでマグニチュードが8を超えるというこれまでにない大きな地震だったことを知り、「大津波警報」が出ていることも知った。
警報の範囲がどんどん広がり、被害の拡大もリアルタイムでどんどん増えていく。震えが止まらなかった。

その日あるはずだった練習は当然中止にするけれど、選手達と連絡がつかない。
仕方なく、信号が止まった道をなんとか走り、練習会場であるスポーツセンターへ向かう。
スポーツセンターに着いたら、目の前にある家が火事になっていて、屋根が吹き飛んでいた。

着いた時にちょうどスポセンの所長さんが出てきてくれて「今日は閉館にします」と教えてくれた。

道は信号が止まったまま。第三京浜も通行止め。
横浜から自宅のある世田谷まで、10時間かけてようやく帰ることができた。

とんでもないことになってしまった。信じられない。津波の映像を見ながら、家で何もできずに途方に暮れていた記憶がある。
その日の夜のことはあまり覚えていないけれど、次にまた大きい揺れが来るんじゃないかという恐怖もあって、避難用具を準備して、靴を履いたまま寝た記憶だけはある。

そして翌日には、福島第一での原発事故。
(11日の時点で《事故》は起きていたが、爆発は12日)

「生きてるうちはもう起きることなんてない」とタカを括っていたことが、たった2日間で立て続けに起きてしまった。
原発が爆発する瞬間のあの映像は、あまりにもショッキングだった。


あれから10年経った今でも、震災は終わっていない。仮住居で暮らしている人、もう二度と故郷に帰れない人、そして震災や原発事故の苦しみに耐えきれず、自ら命を絶つ人だってまだいる。

どこかの前首相が「アンダーコントロール」なんて平然と嘘をつきオリンピックを持ってきたが、汚染水のアンダーコントロールなど、できていない。

汚染水だけでなく、まだ、何も終わっていないんだ。

もちろん自分は被害にも遭っていないし、東北の人々が感じた恐怖に比べたら、その比にもならない。
それでも、自身がリアルタイムで体験したことは確か。今でも、金曜の午後になると時々ゾワゾワすることがある。

あの日、あの時に何が起きて、どれだけの人が亡くなって、この国で何が起きていたのかということは、一生忘れずにいなければいけない。

語り継げるうちは語り継ぐ。それは、あの日を体験した者の義務でもあると思う。
今の小中学生はもうほとんどが、あの日のことを知らないのだから。

note、毎日更新しています。アーカイブは こちら から。



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