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元気をもらえるちょっといいお話23「不可能を可能にする」

こんにちは、くらです。

「惜福(せきふく)」という言葉があります。

幸福に遭う人の多くは惜福の工夫があり、そうでない不運な人はその工夫がない、ということ。

どういうことか。

幸田露伴が著書「努力論」の中で述べています。


「『惜福』とは何かと言うと、福を使い尽くし、取り尽くしてしまわないようにすることです。

たとえば手元に百円(今の十万円くらい)をもっていたとして、これをすべて使い果たし、半文銭(五円くらい)すら残らないようでは『惜福の工夫がない』と言えます。
つまり、必要なもの以外には使わず、無駄なことに浪費しないのが『惜福』なのです。

たとえば私が、母親から新しい衣服を贈られたとしましょう。その服がとてもお洒落で着やすいうえに、暖かいのにも感激して、古い服がまだ破れてもいないのにこの服ばかりを着続けてしまう。古い服は衣類かごの中でカビや埃にまみれ、新しい服は早くも着崩れて、折り目も見えないようになってしまう・・・・・・というのが、『惜福の工夫がない』ということになります。

母親の恩に感謝し、新しい服をみだりに着用することはせず、古い服が破れていないならばそちらを普段着にして、新しい服は冠婚葬祭のようなフォーマルな場所で着るようにする。すると古い服は古い服としてその役割を果たし、新しい服も新しい服として、活躍の機会を得ることになります。

他人の前では清潔な格好ができ、相手への敬意も損ねない。自分にとっても『普通の日も特別な日も同じ一張羅』という、寒々しい状態にならなくて済む。このようにすることを『福を惜しむ』と言うのです。

(中略)

倹約やケチになることを『惜福』と考えてはいけません。本来ならばすべて受け取ることのできる幸運を、取り尽くさず、使い尽くさず、『天』あるいは『未来』といってもいいのですが、いずれにしろまだハッキリしない運命に対して預けておき、積み立てておくのが『福を惜しむ』ということになります。

『そんなことをして一体どうなるのか?』と、これを愚かに思う人もいるでしょう。また、ここでは理解した気になっていても、『実際はそんなことをしないよ』と本音では感じている人もいるかもしれません。
でも、本当に愚かな行為かどうかの判断は、他人の言葉で決めるのではなく、実際にやってどうなるかで決めたほうがいいのです。

(中略)

試しに世の『幸福な人』と呼ばれる富豪たちについて、『惜福の工夫を積んでいる人が多いか?』『惜福の工夫を積んでいない人が多いか?』と、ただしてみれば、誰でもたちまち多数の富豪たちが『惜福』の考え方をもっていることを知るでしょう。

そしてまた、才覚や力量がありながらも一起一倒を繰り返し、世の中に埋没して幸薄く、福がない状態から逃れられない人を見ると、多くの人は『惜福の工夫』に欠けていることが見出せるはずです。」
(『努力論』幸田露伴(現代語訳:夏川賀央、到知出版社)より引用 P75-80)

『惜福』という概念が現代でも生き残っているかわ分かりませんが、欲に対する人間の本能は不変だと思います。とすると、福を少しでも多く享受したいという思いは変わらないでしょう。そして、それが福を遠ざけてしまうことも納得いくような気がします。

幸田露伴は、1867年8月22日(慶応3年7月23日)に生まれ、1947年(昭和22年)7月30日)に没した日本の小説家。今から約百年前の世界でのことが、現代でも通じる概念だと感じます。そして、それは、実際に自分で経験して、自分で判断していくことが大事だと、我々に問いかけている気がします。

今回もお読みいただきありがとうございました。

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