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【第5回】人生は、今取っている「行動」が全てである、と考えてみる
ゲームをやる人種とそうでない人種がいる。
僕は1975年(昭和50年)生まれのいわゆるファミコン世代ということもあり、ゲームをやる人種である。今でもPS4の『モンスターハンターワールド-アイスボーン-』というタイトルを、コントローラーをガチャガチャ鳴らし、(難しくて)「ヒーヒー」言いながら遊んでいる。そう、コロナ生活の(大部分まではいかないにしても中部分くらいの)時間を、僕はゲームに費やしているのだ。
いっぽう、僕と同じファミコン世代であり、昔は夢中でゲームを遊んでいたが、おっさん(あるいはおばさん)になった今は、ほとんどゲームを遊ばなくなったという人たちがいる。
彼らの言い分を聞いているとたいていこんな感じだ。
① ゲームをやっている暇がない
② 子どもに「ゲームをするな」と言っている手前、自分が遊ぶわけにはいかない
③ 昔のようにゲームに夢中になれなくなった
一見すると、①と②は外的要因が強く、③は内的要因が強いようにも感じられる。
つまり①と②の行間には「本当はゲームをやりたいのだが」という本音が隠れているというものである。本当はゲームをやりたいのだが、仕事が忙しくて遊んでいる時間がない。あるいは本当はゲームをやりたいのだが、子どもの教育上よくないからできないのだと。
しかし、それは嘘だ。
彼らは外的要因によって「ゲームをやりたい」けど「できない」のではなく、ゲームに関心を持てなくなったので「やらなくなった」のだ。つまり、彼らの理由もつまるところは③の「昔のようにゲームに夢中になれなくなったから」なのである。
アドラー心理学の話をしよう。
アドラー心理学では「行動」が全てであると考える。例えば医者から酒を止められている人が「飲んじゃいけないと分かってはいたんだけど、ついつい手が伸びちゃってね」と言い訳したとする。これはあたかも頭では分かっていたんだけど、体が言うことを聞かなかったと主張しているようだが、それは嘘だ。
頭も体も協力して(つまり共犯関係で)、「酒を飲む」という目的を果たしたとアドラー心理学では考える。
あるいはこんなケースはどうだろうか。
「怒ってはいけないと頭では分かっていたんだけど、つい、カッとなってしまって、怒鳴り散らしちゃったんだよ」と言う人。
理性では分かっていたんだけど、「感情が暴走してしまってね」と、まるで感情をワルモノにしているかのように聞こえるが、これも嘘である。
彼は怒鳴り散らすことで、何がしかの目的(例えば「相手に誤りを認めさせたい」とか「相手を自分の思い通りにコントロールしたい」といった目的)を果たそうとしたのである。
つまり、一般的によく対比して使われる「心」と「体」とか、「理性」と「感情」とか、あるいは「意識」と「無意識」とかいうものは、互いに矛盾するものではないのだ。
それらはたった一つの「目的」を達成するために、互いに協力し、互いに補完し合っていると考える。これがアドラー心理学の「目的論」とか「全体論」といった考え方である。
昔はゲームをやっていたのに、今はゲームをやらなくなったという人たちは、大人になって(社会人になって)忙しくなったからゲームができなくなったのではなく、ゲームよりも大きい関心ごと(例えば仕事とか)ができたのである。
あるいは大人になって(親になって)子どもの教育上ゲームをやらないのではなく、自分がゲームを遊ぶことよりも、子どもの教育への関心がより高くなったのである。
つまり、人生というものはそのかなりの部分が、実は「嘘」によって作られているということだ。しかも、その「嘘」に自分自身が本気でだまされてしまうのだからたちが悪い。
別に、たかがゲームだからどうってことはないのだけど、この考え方は人生の様々な場面において(自らを振り返る時に)「応用」が効く。
結論。私は45歳になろうとする今でも(他のことよりも)ゲームに関心が向いているので、たぶん今日もゲームを遊ぶのである。
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