当たり前の向こう側を目指す
言葉を使うという行為そのものが安易な手段であってはならないと思う。
だから私は出来るだけたくさんの言葉を知りたいし、出来るだけ優しい言葉を選びたい。
最果タヒさんの
【あなたと私が、わかりあえないまま、それでも共に生きるために、言葉はあると思う】
という言葉にいまも生かされている。
これまでの人生で、人に優しくできなかった時のこと、定期的に思い出してはずっとずっと後悔したりしてる。
私が傷付けた人たち、私のことなんか忘れてて、全員しあわせに生きているといいと思う。
みんなの悲しみも苦しみもなにもかも、重い荷物は全部、私が引き受けて背負うから。
泣くのは私だけでいい。
人がてのひらを返す瞬間に特段弱い。
なんか心情に変化があったんだろうなという気
配。笑顔と真顔がスイッチのごとく切り替わる瞬間。いつも優しくしてくれる人の、店員さんへの横暴な態度。
心臓がぎゅんとなって、全身を巡る血が冷えていく感覚。こういう苦しさは、生きてる限りあと何百回繰り返すんだろう。
人の内面は言葉よりも行動に出るというけれど、どうだろうか。
不確かな言葉だけ貰っても信用ならないと思うときもあるし、決定的な言葉で確信を貫いてもらいたいと願うときもある。
どっちかじゃなくて、どっちもがいい。
バランスよく。どっちもがいい。
でも、言葉を持つことによってわたしたち、どれだけ尊いものを失って、どれだけ単純なものを難しくしてるんだろう。
衝動的にした行動の先で、慎重に考え抜いた行動の先で、追い詰められた末の行動の先で、これは間違いないと信じ確信めいた行動の先で、
どれだけの尊い今を失って、永い後悔が生まれるんだろう。
言葉だって、行動だって、その確信だって、不確かなものかもしれないのにね。
当たり前なこと当たり前にできないようじゃ、当たり前の向こう側になんか行けないのだぞと言い聞かせる。
自分だけが特別だとか思わないように、生きる。
ぬかるみに足を取られて転んでしまいそうな時は、いっそ一緒に泥に塗れて、ふたり笑い合ってしまおう。
顔を見合わせ笑い合えない時には、いつでも駆け付けられる距離でそっとあなたの背中について歩こう。
そんな時でも、どんな時でも、不確かで不安定な道の上を手を離さずに歩こう。
雨が降ったら大きな傘を差そう。大きな木の下で雨宿りをしよう。雨に濡れて突き進むのもいい。やがて雨が上がり虹がかかったなら、その時は天まで突き抜けるくらいに笑い合おう。
そして虹の麓までふたり歩いて行って、虹の橋を手をつないで渡ろう。
私はまだまだがんばれるよ。
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