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心の体幹を鍛えるということ

手放す≒受け入れる
引き寄せる≒サレンダー

いずれもよく目にするスピリチュアルワードでありながら、それぞれ相反する意味を持つからややこしい。どちらも正解だし、言うなればどちらも不正解。

つまり、私たちが自己実現や幸せを意図した時、目指すのはこの『≒』の部分であって、両輪がありながらどちらに偏ってもいけないのだ。

曲芸かーい。

例え話としてよく引き合いに出されるのが、公園でシーソーの真ん中に立ってバランスを取る遊び。したことないって人はチャリに乗ったつもりで。どっちもないって人はとりあえず想像で。

やってみるとわかるけど、人間の体って目線の方向、すなわち意識した方向に体重移動する。だからチャリは曲がっていくのだ。逆に、目線も意識も正面を見据えたまま、左右どちらかに比重を移すのは限りなく不可能に近く、腕の力だけで進行方向見ずにチャリで曲がるのも、やったことないけど高確率でコケるんじゃないかな。うん。

相反する世界を視界の隅に入れつつも、意図した幸せに真っ直ぐフォーカスする。どんだけ高等技なの。だけど、そこを細かくツッこんでもいいことってあんまりなくて、どっちみち私たちは手放しながら受け入れて、引き寄せながらサレンダーしなくちゃならないんだからw

じゃあ、どうするか。

私たちは二次元的な思考に囚われがちだけれど、この宇宙には前後左右だけじゃなくて、上下もあって、外側もあれば内側もあるってことなんだよね。物理的に前だけを見るんじゃなくて、言うなれば心眼で全方向を見る。言い方を変えれば一切を見ない。バランスを取りながら、こうなったらいいなあ、という願いを頭上からそっと『手放し』、現状は現状としてただあるがままを足元で『受け入れ』、いったん天に放った願いを再び『引き寄せ』ながら、しがみつくことなく再び放出する。ただただ、宇宙の流れの中に身を置いて『サレンダー』することこそが、幸せへの近道なんじゃないかなと思うのだ。

なぜなら幸せって籠の中の鳥のように捕まえておけるものでもないし、野の花も摘んでしまえば萎れるように、あるべき場所で、絶えず循環するものだと思うから。喜びも悲しみも、すべては宇宙の量子の海の中にあって、つまるところ私たちの幸せは最大限、良好なアンテナを張っておくこと、直立不動の態勢を保ちながら、いかに継続的に望む量子を継続的に引き寄せられるかにかかっているんじゃないだろうか。

結局、これをうまくやるコツって体幹だと思う。自分軸の話に似てるけど、体がふにゃふにゃ曲がったり、いちいちコケてたりしたら、そもそもスペースデブリ(宇宙の軌道上にある不要な人工物体の破片、早い話がゴミ)すらキャッチできない。

なんだか漠然としてるけど、たぶん、なんとなくでもイメージできたらいいのだ。どうせ、幸せに至るまでのプロセスは宇宙が準備するのだから、私たちは幸せのベース作りだけに専念すればいい。

そんなことを思う、今日この頃である。






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