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カテゴライズしたがる現代人

昔なら「ちょっと変わった人だな」「繊細な子ですね」といわれながらも、特別な呼称をつけられることなく、普通に社会に溶け込んでた人って結構いましたよね。

それが今や、ほんの少し人とちがう特徴をもってるだけで、なんらかの分類に入れられてしまうようになりました。
僕が知ってるだけでも、たくさんの人間のカテゴリーが誕生しました。

⚫︎「ASD」「ADHD」「BPD」などの障害による分類
⚫︎「16パーソナリティ」などの性格診断による分類
⚫︎「モラ夫」「カサンドラ」「HSP」などの個人の器質による分類
⚫︎「LGBT」などの性自認による分類

勿論、昔からある「血液型」「出身都道府県」「国籍」「年齢」による分類も然りです。

そして、ネットやSNSの普及によるリアルな人間関係の希薄化によって、特に人々は自分をどこかの分類に入れたがるようになっていると感じます。
そもそもSNSが人々の間に普及した理由の一つに「人とつながりたい」という気持ちがあるわけですから、必然的に「自分はこういう人間です」と自己紹介の為に自分をカテゴリー化して、共通点を持つ人たちとつながっていくんですよね。
カテゴライズする傾向が強くなっていくのも当然というわけです。

今回は、カテゴライズすることの意味とその弊害、それをやめることで得られる恩恵について書いていこうと思います。

1.なぜ人は自らをカテゴライズしたがるのか

(1) 不安だから

人間は未知のものに不安を覚えます。
なので、人に限らず、みたことがないものに出会ったら、それが何なのかを考えて、概念化してカテゴリー化するわけです。

「あぁ、これは“蜘蛛“の一種なんだね」
「実はこれ“文房具“だったのか」

という感じで。
つまりカテゴリー化は、正常な対象の認識過程の一つであるわけです。

みたことのないものがあって、それがなんなのかわからないと不安になりますよね。
それは対象が人間であっても同じことです。
こと、島国に暮らし、同じ顔ぶれの人間関係の中で生きてきた日本人は、未知の人間を前にすると不安を抱きやすいのです。

「日本人はカテゴリー化が好き」といわれるのも、不安が強いからなのかもしれません。
余談ですが、日本人が大好きな「血液型診断」や「都道府県民タイプ分類」は外国人の目からみると、ものすごく奇異にうつるようです。

日本人に限らず、カテゴライズしたがる人間というのは、対人関係における不安がことさらに強い人である可能性が高いのでしょう。


(2) 納得したい

人間はなんだかよくわからない状況が大きらいです。
状況がつかめないと思考も行動も停止します。
だから、てっとりばやくそんな状況から抜け出すために、ついつい相手をカテゴライズしてしまいます。

他府県からクラスに転校してきたクラスメートについて考えてみましょう。
どこからきたのか、どんな趣味があるのか、わからないうちは仲良くなりづらいですよね。
どこからきたの?趣味はなに?血液型は?と質問を重ね、沖縄からきたダンス好きのO型、喋ってみるととても明るい子であることがわかりました。

あなたはきっとこの転校生を「陽キャ」とカテゴライズすることでしょう。
そして、あなたが自分も陽キャと分類しているならもっと仲良くなろうとするでしょうし、そうでないなら距離を置こうとするかもしれません。

いずれにせよ、この例のように「この人はこうだから」と納得した上でないと、人間は自分の態度を決めかねるわけです。
人によって多少の差はあるかもしれませんが、ほとんどの人は相手によって微妙に接し方をかえるものなので、カテゴライズは「自分が納得した上で行動を起こす」布石ともいえるでしょう。


2.カテゴライズすることで失うこと

(1) 思考が固定化する

人間というのは表面にあらわれている以上に、とても複雑な要素で構成されています。
無数の特徴のうちの一部分に着目すればAという分類に属するように思われたのに、その人の別の面に着目するとBという全く別の分類に属するようにも思われる、こんなことも往々にしてあると思います。

個人的な例で恐縮ですが、僕は子どもの頃、中国人に対してネガティブなイメージをもっていました。
親世代の誤った先入観や、メディアの偏向報道による影響も強かったんだと思います。
「中国出身者である」とわかった瞬間に『あぁ、きっとなにかにつけて文句をいってくる自己中心的でわがままな人なんだな』と手前勝手なラベリングをしてしまっていました。
しかし、親しく接していく内に「中国人」というカテゴリーを意識しなくなると、不思議と一人一人の人間的な温かみや聡明さに気づかされ、出身国によるカテゴリー化の無意味さがわかったんです。

「あいつは“陽キャ“だから」と決めつけて友人と接していると、その子がもつ繊細な一面を見逃してしまうかもしれません。
最近流行っている器質によるカテゴリー分類も危険ですよね。
「自分は“毒親育ち“だから」とすべてを生い立ちのせいにしてしまうと、思考の沼から抜け出せなくなってしまいます。
なんせ、生育歴なんて本人の努力では変えられないわけですから。
引きこもりになってしまったのは、毒親育ちだからなのではなくて、傷つくのを恐れて自分の殻に閉じこもってるからだった、なんていうケースはザラにあります。
「あの人のせいで“カサンドラ“になった」というのも、思考にがんじがらめにされてる例ですよね。

誰かのせいで自分の人間性が100%規定されるなんてありえないですから。


(2) 決めつけが常態化して「差別」が生まれる

カテゴライズしてしまうことは、相手の本質をみなくなってしまう危険性をはらんでいます。
戦前の関東大震災の折、無実の朝鮮人が虐殺された事件が発生しましたが、あれも「日本人に恨みをもつ“朝鮮人“」というカテゴライズが生んだ悲劇なのではないでしょうか。

最近話題にのぼることが多い、性自認によるカテゴライズも、無用な差別を生んでいますよね。
身体の性転換をしていないのに「女性」であると主張するな、といったように、身体と心の性が一致していない人を『半端者』であるかのように扱う傾向などその典型だと言えます。

一方的なカテゴリー化は、相手を理解しようとする気持ちを薄れさせます。
そして、よく理解できないものは排除する、という差別につながっていくのです。


3.カテゴライズをやめることで得られるもの

(1) 枠にとらわれない発想ができるようになる

僕自身も対人緊張が強い方なので、よく知らない人と会うときは、ついつい相手の職業や肩書きから、その人をカテゴライズしてしまいやすいです。
そして、リハビリ職という対人援助職をしていると、すぐ相手をカテゴリー化してしまう傾向はデメリットの方が大きいです。

「70歳代の男性患者はプライドが高くて怒りっぽい」という先入観をもって、堅苦しい対応をしていると『あんたは形ばっかりで親しみが持ちにくいわ』と言われたり、「離婚経験者には結婚の話はタブー」という思い込みから結婚の話を避けていると『ぜんぜんプライベートなことを聞いてくれないし話してもくれない』と不満を抱かせてしまったりします。

大切なことはカテゴライズして対応を決めるのではなく、その人をみて対応を決めることなんです。
そして、なんでもかんでもカテゴライズする癖を改めると「もしかしたらこうかもしれないぞ」と柔軟に考えていくことができるようになります。

もちろん、事前に相手のプロフィールをみて、多少のカテゴリー化から「こうかもしれないな」と予想を立てておくことは大切です。
全くカテゴライズするなという話ではなく、そのバランスが重要なのです。


(2) 可能性が広がる

ここまでは、主に他人をカテゴライズすることについて書いてきましたが、最後に『自分をカテゴライズすること』について書きたいと思います。

あなたは自己紹介をするとき、どんな言葉を使って自分を説明しますか?

僕は最近までTwitterでは「発達障害者」「ADHD」「ASD」などの言葉を前面に押し出して自己PRをしていました。
そもそも、発達障害者のリアルを発信していくという目的で始めたので、それはそれで理にかなっていたわけです。

でも、手帳を所持していて、服薬して、定期的に通院している内に、なにを考えるにしても「自分は障害者」というのが先立ってしまうようになりました。
言葉の影響力は絶大で、自分はハンデをもっていて、普通に生きていくことができない人間だと思うようになってしまったんです。
障害者であることが理由で、夢だった海外で働くことも、自衛官になることも諦めてしまった経緯もあります。

現在の僕は、悩みを抱えながらもなんとか日々の生活を送れています。
先日思い切って主治医に気持ちをぶつけて、通院も服薬もストップしました。
「発達障害」の肩書きも捨てました。
自分に対する無用なカテゴライズを放棄したんです。
確かに、僕の特性(注意散漫・マイワールドの住人など)は一生つきあっていくものです。
でも、僕は、発達障害者ではなくて、この世界にいる70億人の人間のうちの一人なんだと、やっと思えるようになったことで、いろんなことに挑戦する意欲が湧いてきました。

自分を枠の中に押し込めていた頃にはみえなかった道がたくさんみえてきています。

言葉というものはこわいもので、自分に特定の言葉をあてはめてしまうと、それ以外の可能性がみえなくなってしまうものです。
本当はぜんぜん違うのにカテゴライズしてしまったが故に、そこしかみえなくなってしまった、なんて例は無数にあると思っています。

先ほどもちらっと書きましたが、カテゴリー化することは悪いことばかりではありません。
生きていく上では必要不可欠な、対象認識の正常な一過程であると思っています。

でも、過度にカテゴリー化してしまうことで、みんなが自分の可能性にフタをしてしまわないように、ただただ祈るばかりです。

最後までお読みくださってありがとうございます。


イルハン

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