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余白だらけの部屋

 僕が「バイバイ」と手を振れば、君はいつだってにっこり笑って「さようなら」と手を振り返してくれた。だからあの時だってきっとそうなるって、笑顔でお別れできるって信じ込んでたんだ。
 けれどあの日の君はとても冷めた目をしていて、僕から視線を外せることを喜ばしいって思っているみたいだった。せいせいするわ、とでも言うように、セミロングの髪をはねのけて、凛々しささえ感じるそぶりで踵を返してみせ

「さようなら」
 僕は精一杯の強がりで、口端を上げながらそう言った。
「さようなら。もう二度と会うことはないでしょうね」
 淡々とした口調から、君の中に僕への未練とか、執着とか、そういったものが一切なくなっているのが見てとれた。
 僕は悲しかったというより、悔しかった。
 せめてお別れしたとして、君の中に在り続けることができる男でいたかったと、本気でそう思っていたから。

 生活の中から君の痕跡を消すのはなかなか難しかった。
 揃いのマグカップのかたわれを捨てたところで、それが揃いだったという事実は消えない。見るたびに思い出す。
 ピンク色の歯ブラシ立てを撤去したところで、そこにある余白が寂しさを増幅するのだから始末が悪い。それになにより、この部屋は一人で住むには少し広すぎた。

 ベッドサイドにある伏せられたコルクボードには、君との思い出の写真がこれでもかっていうくらい貼られてる。こんなものまずまっさきに捨ててしまわなければいけなかったんだろうけど、どうしてもできなかったんだ。だってこれを見ていると、あの時の君も僕もこんなに幸せそうなのに、そんな二人にも終わりがきてしまったなんて、もしかしてただの悪い夢なんじゃあないかって、そんな風に思えてしまうから。

 ベッドに横たわりながら、本来の目的を果たすことなく床に突っ伏しているそれを眺めていると、目尻から涙がこぼれ落ちてくる。僕らはこれからどうしたって一緒にいられない。写真の中の君たちとは違ってね。そう思うと泣けてくる。際限なくこぼれていく涙の海におぼれながら、やがて泣きつかれて、眠る。そういう日々が続いていた。そういえば、最後に仕事に行ったの、いつだったっけな。

「貴方と別れる時がくるとしたら、それは私が死ぬ時よ」
 そう言っていたくせにあんなに呆気なくお別れを告げた君。
「さようなら。もう二度と会うことはないでしょうね」
 最後の台詞がリフレインする。もう二度と、会うことは、ないでしょうね。

 気が付けば僕の右手は古ぼけたライターを握りしめていた。
 親指でかちっと火を灯し、身をのりだすと、その赤色をコルクボードにそっと近づける。
 ジジ、という音と共に、少しずつ煙が上がった。
 焦げ臭い匂い。だんだんと大きくなる炎。
「はは、ははは」
 どうせならこのまま死んでしまえればいい。
 君のいないこの部屋なんて、僕にとってはもう、それだけで豚箱以下だ。

 しかし無情にも、炎の燃え広がるかすかな音は、けたたましい火災報知器の警報にかき消される。
 間もなく作動したスプリンクラーは、コルクボードの火も、部屋中の家具も、そしておれ自身のこともびしょ濡れにして、結局「あれ」や僕自身を燃えカスにすることはかなわなかった。

「はは、ははは……」
 掠れた笑い声が、ひどい状態の部屋に響く。
「まじ、だっせぇ……」
 こんな僕を知ったら、君はさらに幻滅するだろうな。
 だから今はひとりでよかった。
 余白だらけの部屋でうずくまりながら、僕は一人、静かに泣いた。

(お題:燃える彼女 制限時間:30分)

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