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嵐のような後悔と、凪いだ心の自己肯定

 私にとって後悔という感情は静かな海をおそう”しけ”みたいなものだ。
 心や身体の調子が悪い時(私の場合それはほとんど月経周期に左右される)、嵐のように「何もしたくない」「死にたい」という感情が私を襲う。
 ぼろぼろ泣いて、これまでの人生やこれからの人生すべてが過ちであるような気がして、世界の全方位に土下座しなくてはならないような気持ちになる。
 けれど時が経ち嵐が去ると、この感情はほとんどの場合、風が凪ぐみたいにしてすっかりなかったことになってしまうのだ。

 一方、比較的元気である時の私に「今も悔やんでいることは?」と尋ねると、「多分そういうのはない」という答えが返ってくるだろう。
 これは「今も」という言葉によるところが大きい。要するに、元気な時の私にとってその後悔はもう過去のものなのだ。

 そもそも「後悔する」ってどういう状態なんだろう。
 私には、悔やんだり、悲しんだりする感情が持続している状態のことのように思える。でも、そんな感情を長いこと心の表層に浮かべたまま、ひとって多分生きていけない。
 「今も悔やんでいる」ひとの大多数は、心の中に傷痕として、その後悔を『持っている』のではないか。それが辛い時や悲しい時、何かのきっかけで(例えば私の”しけ”のように)唐突に顔を出すのではないか、というのが私の考えだ(だから「今も」という言葉に執拗にこだわって、答えを出し渋るのかもしれない)。

 そういう傷痕ならばもちろん私ももっているのだけれど、じゃあ「今も悔やんでいることは?」という質問の回答としてそいつを用意するのがベストかと言われると悩む。

 だって私は、その選択をしなかったら今の私にはなりえなかった。
 だから本当に100%その選択を悔いているかといったら、違うのだ。
 ――なんて言うと、すごくポジティブな人間のように見えるかもしれないけれど、全然そういうんじゃない。

 私は多分、今に至るまでの選択肢を一つか二つ間違えていたら、この年まで生きていなかったと思う。
 高校に行けなくて自殺サイト巡りしていた時、仕事場に立つだけで涙が出てきてトイレに駆け込んで吐いた時、私は一歩間違えばこの命を絶っていた。
 けれど、例え月イチで死にたくなっても、やっぱり本当は生きていたいのだ。愛する夫と娘と、なにげない日常を過ごしていたいのだ。

 だから私は、これまでの自分の選択を、過ちもなにもかもひっくるめて肯定するしかない。そこに「後悔を持続させる」なんて余地は残されていない。

 そういうわけで、私の「今も悔いていることは?」という質問へのファイナルアンサーは「ありません」というシンプルな一言になる。
 例え月イチで、死にたい気持ちが襲い掛かってきても、嵐が過ぎればそれすらまるごと、みとめてあげられる自分になるから。

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