椎名林檎と「日本」という幻想
先日、仙台で大好きな椎名林檎のライブに行ってきた。
彼女の力強い歌声を久しぶりに生で聴くことができ、感無量だったのだが、終盤にかけて「日本」をテーマにした曲が三曲ほど続き、スクリーンに大きな日の丸が表れた。
観客が熱狂するなか、たぶんブーイングをしたのは俺だけだったと思う。
椎名林檎が、日本人が国家主義に惹かれるのはなぜか。
そして、母も父も祖父母もみな日本人の俺がなぜそれに違和感を覚えるのか。
まず、そこには歴史認識の大きな違いがあるのだと思う。
おそらく多くの人の戦後史観はこのようなものではないか。
日本人は汗水垂らして働くことにより貧困を乗り越え、軍隊を持たずに平和主義を貫き、ほんの数十年で世界でも上位を争う経済大国を築き上げた。しかし、なぜだかここのところ慢性的な不況に陥ってしまっているため、国民の精神が不安定になってしまっている。
椎名林檎は、心から国家主義を信奉しているというよりも、このような現代日本における行き場のなさ、漠然とした不安を音楽で吹き飛ばそうとしているように見える。
つまり、「日本」が行き詰まっていることを前提としたうえで、「日本」は、私たちは、まだまだ素晴らしいよねと言おうとしているのだ。
最近の彼女の歌詞に「女性」や「氷河期世代」を意識したものが多いのも、バブル崩壊の犠牲になった最初の世代として生まれたことや、現代の日本社会が女性に強いる負担を軽視していないからだと思う。俺はこれは全うだと思うし、このような視点には芸術家の鋭い観察眼を感じる。
しかし、「日本」の経済成長の裏には他国に対する残酷な仕打ちがある。
「日本」は、沖縄、長崎、広島を始めとし、日本中で殺戮を行ったアメリカ合衆国が、日本の帝国主義から「解放」したはずのアジア諸国を侵略するのを手伝ったことにより、経済大国になったのである。
「日本」は、アメリカによる朝鮮半島やベトナムの侵略の際に、軍需産業によりぼろ儲けしたのである。
「日本」は、日本人が「勤勉」で「真面目」であることにより経済大国になったのではない。
そんなことで経済大国になっていたら、今頃アフリカは世界で最も裕福な大陸になっているだろう。
所詮は敗戦国、米国式民主主義に追随せざるを得ない運命であったかもしれない。
しかし、俺は思うのだ。他国を犠牲にして勝ち得られた「日本」の経済成長は、必ずしも日本人を豊かにしてきただろうか。
例えば、国が強制的に押しつける米軍基地を巡って残酷な選択を迫られている沖縄の人々。
原爆の被害に遭っているにもかかわらず、いまだに国による賠償を受けていない長崎や広島の人々。
津波や原発事故により家をなくし、国や東京電力により誠意のある対応を受けていない東北の人々。
故郷を奪われたままの北方領土の人々。
これらの人々は、状況や形は違えど、みんな「日本」を相手に戦っている。
日本中に住む多くの人にとって、戦争はまだ終わってなどいないのである。
そして、もちろんこれは日本の外に住む人にとっても同じだ。
俺の友達の韓国人の多くが椎名林檎のファンだが、彼女の国家主義をとても残念に思っている。
皮肉な話だが、椎名林檎が行き詰まった日本の人々を励まそうと思うのであれば、そして日本人が日本を誇りに思いたいのであれば、まずは国家としての「日本」への執着をやめることが必要なのではないか。日本人は、「日本」、そして部分的にはアメリカによる謝罪を求めて当然なほど酷い目に遭ってきていると俺は思う。
俺が好きな「ありあまる富」という曲の中で、椎名林檎は「価値は生命に従って付いている」と唄っている。
その通りだと思う。
人間の価値は、決して国家などに従って付いているものではない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?