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デジタル麻雀とオカルト麻雀

麻雀においてのデジタルとオカルトとはなんだろうか。
今まで言葉としてはしっかり理解しているもののずっと何か違和感があった。

オカルトとはとある特定の人の結果を元に思考し生まれた戦術である。簡単に経験則とも呼ばれる。
この特定の人の結果という部分が情報革命の流れで統計データによる結果へと進化したものがデジタルである。
実はどちらも似たものである。

しかしオカルトというと何か説明できないものが多かったりデジタルは説明がしっかりしてたりする様に感じる。
けど現在でもデジタルっ子に用いられる場況読みとか速度読みは統計が取りづらいし、そもそもどういう場況ならこう読めるという統計などいちいち取れるはずもない。
理屈はあるのにオカルトに近い存在になっている。
逆に土田浩翔プロのマンピンソーの法則(河に萬子、筒子、索子の中張牌が切られると速度が速いと読めるという教え)はオカルトとされ理屈は説明されてないはずなのに妙に理にかなってる感じがする。ちなみに私はデジタルっ子のくせしてマンピンソーの法則をかなり良く使う。今年のアモスグランドチャンピオンシップ決勝の東一局一本場の鈴木さんの副露に対しての私の押し引きは完全にマンピンソーの法則で速度読みして決めていた。

話を戻す。
これは時代によって思考の部分が進化した結果であると考える。
強い人が増え、色んな戦術が世に出始めて段々と人はどの戦術が良いかを比較するようになった。その時に求められたのが理屈であった。
理屈があると人々は納得出来たため、段々と理屈のある戦術を信じるようになってきた。
そうして現代になり、理屈のなかったオカルト時代の戦術が信じられないようになってきただけである。

昭和の時代がオカルト一強、平成がデジタルvsオカルトとするならば、令和の時代は「オカルトの進化系がデジタルなだけである」とする、というのが私の考えである。

まとめるとこんな感じである。


そしてここからはデジタルはこの先進化するのか考えようではないか。

結果の部分は現状統計データを参考にするのが最も良いことは間違いない。データの部分で出来るのは統計データの精度を細かく上げていくくらいだ。
今一番大きく変えられるのはそのデータを元に考える皆さん自身の思考の部分である。

近年何切るや難しい選択の優劣を統計データに求める人が増えているように感じる。それ自体はいいのだがそのデータを鵜呑みにしてしまうのは思考放棄なのでは?と思ってしまう。
例えば押し引きの局収支の考え方。別に間違ってるとは言わない。ただプラスになる点数とマイナスになる点数で差し引きして収支を取ったとして果たしてそれは正しいのだろうか。理屈は確かに点数が少しでもプラスになる選択をした方が良い。ただもしかすると強い人は収支+3000点以上くらいになるような打牌を心がけているかもしれない。
半荘全体としては局収支微プラスの選択は分散が激しく、合ってない可能性がある。なんならこの考え方が間違っているのかもしれない。

また他の戦術との兼ね合いもある。局収支だけを考えずに他の戦術と組み合わせる事で局収支だけでは見えなかった部分も考える事ができ、より良い選択が出来るかもしれない。

要は保持してる戦術の精度と多様さ、そしてその組み合わせのバランスが大事なのである。色々な戦術に対応でき、そのバランスの取り方が上手いようなそんな人が強い人となるのではないだろうか。

そんな強い人が戦術を考え、また他の強い人がその戦術を持って実践し疑う、そしてバランスを考えてまた新たに戦術を生み出す。そうやって考え続ける事で麻雀界は回っている。戦術をもって新たな戦術を考えるのだ。
結局は思考を止めずオカルトな過去の戦術もデジタルな現在の戦術も疑い続け、考える事が新しいデジタルの進化系となる麻雀の戦術を生むのに一番大事なのではないだろうか。

是非このnoteの内容も鵜呑みにせず、自分でこのことについて考える要素の一つにして欲しい。


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