「いだてん」、第36回「前畑がんばれ」はロックフェスだった!
大河ドラマ「いだてん」、第36回はまたも衝撃的な内容だった。サブタイトルは「前畑がんばれ」。戦後生まれの私ももちろん、平成生まれの若い層でも一度は聞いたことがあるであろう、戦前オリンピック史にひときわ輝く伝説、その名実況から生まれたフレーズだ。ドラマ前半は、この一人の女性トップスイマーを中心に展開した。
前回のロサンゼルス大会で銀メダルを獲得するも、日本国民の間だは「あと一歩で金だったのに」といった落胆の声が際立った。前畑秀子(演:上白石萌歌)はそんな雑音を拭い去ろうと、執念に燃えた。ベルリンオリンピックが近づくに連れ、前畑の泳ぎは冴え渡り、当時の世界記録を再三塗り替えていった。一方、最強のライバルにして地元ドイツ期待のマルタ・ゲネンゲルも順調な仕上がりを見せ、前畑の闘志は一段と燃え上がっていた。反面、前畑は予選での好結果に満足しないどころか、かえってそれがプレッシャーとなり、気持ちはどんどん追い込まれる一方になっていた。国民の期待を一身に背負う代表選手とはこうもストイックになるものなのか。
近年では強心臓のアスリートが注目され、プレッシャーに押しつぶされるなどということとは無縁な現代っ子の表情ばかりがもてはやされがちだが、誰もがそんなに度胸がいいというわけでもなかろう。現代のトップアスリートがこのシーンをどんな気持ちで見ていたのか、誰かに聞いてみたくもなる。
そんな内なる敵と戦うアスリートの表情を、前畑役の上白石萌歌は見事に演じきっていたと言えるだろう。時折挟まって映し出されたロサンゼルス五輪でのまだあどけなさが見え隠れしていた表情とは全く違う、円熟味を増したアスリートの顔が確かにそこにはあった。
そして、いよいよドラマはレース本番のシーンへ。前畑、ゲネンゲル、ともに好スタートを切り凄まじいデッドヒートを展開する。ここからはもうひとりのこの回の主役・NHKアナウンサー河西三省(演:トータス松本)の“伝説の実況”の再現だ。あまりにストイックになっていた前畑の姿を見た水泳総監督の田畑政治(演:阿部サダヲ)は、彼女に「がんばれ」と声をかけることを禁じるよう、同僚にもアナウンサーにも命じていた。その言に従った河西は、自身の体調不良もあって、穏やかな口調から実況を開始する。「前畑嬢」という彼女への呼び方がなんとも印象的だった。
しかし、抜きつ抜かれつの展開に河西の口調は徐々に勢いを増す。ついには大きなマイクを抱きかかえながら実況席からはみ出さんばかりの姿勢になり、田畑の静止も目に入らずエスカレート。ついに「前畑がんばれ」を連呼しだした。最後は、もう何回繰り返したかわからないその絶叫は遠く離れた日本のラジオの前にかじりついていた庶民たちにも伝播し、「前畑がんばれ」の大合唱が列島に鳴り響いた。それは今で言うなら「天空の城ラピュタ」が放送される際に毎度繰り返される23時24分頃の「バルス」ツイートに近いものがあるが、その質はまるで違うことは言うまでもない。
この、河西三省を演じたのはミュージシャンのトータス松本。この配役が発表された当時、なんでこの人なのかという疑問を覚えた。そう感じたのはトータス松本当人も同じだったという。本当の理由はスタッフに直に聞かない限りはっきりしないが、この実況シーンを見たことで激しく納得がいった。席から乗り出し、競技者の名前と「がんばれ」のみを連呼するなんて、並のアナウンサーでは到底できない芸当だろう。古舘伊知郎あたりならそれも可能かもしれないが、年齢的に難しそう。そう考えたとき、へたに普通の俳優を当てるよりも、絶叫と疾走感を常に地で行くロックミュージシャンにこそふさわしい役ではないか。そんな思いがキャスティングの際に浮かび上がったのではないだろうか。それは、裏を返せば、伝説の実況を生んだ河西アナ当人こそが、ロックミュージシャンだったとも言える。そして、「前畑がんばれ」は日本人が初めて味わったロックフェスだったのだ。
この伝説の実況について、当時の新聞記事はその盛況をたたえつつも、中立であるべき実況ががんばれを連呼するとは偏り過ぎではないかと釘を差したという。こうした真面目な反響からも、河西実況のロック魂がうかがえる。
そんな、華やかな喧騒をあとに、ベルリンオリンピックは閉幕した。そして、ヒトラーから渡された主催国のバトンは東京へと引き継がれることに。しかし、東京は226事件が起きたばかりの、とても平和を謳歌できる都市とはいい難い状況が現実として横たわっていた。その矢先、ベルリンの選手村で通訳をしていた愛想のいいユダヤ人青年が、五輪閉幕翌日に自ら命を絶ったことが明かされる。そして、早速発足した東京オリンピック組織委員会は軍部の意向が配慮され、スポーツの祭典よりも国威発揚優先の姿勢に傾く。そして翌年、日中戦争の勃発で「つづく」となった。
番組開始から30分までに描かれた見事なまでのスポーツドラマと国民のお祭り騒ぎは、その後の10分間によってあっさりかき消されてしまった。思えば2週前、冒頭で226事件の重苦しい緊迫感が描かれたあと、IOC会長への“目黒のさんま作戦”な接待攻勢で和やかな雰囲気を取り戻した第34回と真逆の構成である。オリンピックと政治・戦争は表裏一体といわれるが、たとえそれが稀代の独裁者のもとであろうと、つかの間の和やかさをオリンピックがもたらしたのは確かなのではないか。「いだてん」のこの3週分の流れから浮かび上がってきたのはそのことだ。
ベルリンの地に生まれた「前畑がんばれ」伝説は、そんなつかの間の平和の夢の中で日本人が覚えた、忘れてはいけない祭ばやしの雄叫びなのかもしれない。
ついに戦争の時代に差し掛かってしまった「いだてん」。これから3週、重苦しいことが続くのは目に見えているが、その先にはまた、祭ばやしが待っていることを思えば幾分か気が楽になる。ドラマだから、それでいいのだ。
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