「いだてん」最終章突入、ふとよぎった「ゼッケン67」の記憶
にっくきラグビーのために1週吹っ飛んでしまったNHK大河ドラマ「いだてん」第40回がやっと放送された。サブタイトルは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」。ご存知スピルバーグの傑作シリーズから取ったその名の通り、今回はデロリアンのごとく14年もの時空を駆け抜ける猛スピードの展開となった。
ドラマは昭和34年、田畑政治(阿部サダヲ)は20年前に幻となった東京オリンピックを今度こそ実現すべく、奔走を続け、ついに招致への大詰めを迎えていたところからスタートした。先々週の第39回を見てなかった視聴者には「あれ?随分とんだな。ひょっとして先週もラグビーやってる裏で密かに放送されたのか」と思ってしまうほどの唐突さを覚えたのではないか。
そこで田畑は、東京招致の成否が決まるIOC総会での最終スピーチを一人の男に託すべくその説得にあたっていた。その男とは平沢和重(星野源)。なき嘉納治五郎の最期を日本へ向かう船上で看取った外交官で、昭和34年当時はNHKの解説委員を務めていた外交評論家である。しかし、平沢はかねてから東京への五輪招致は尚早だとテレビ・ラジオを通じて論じていた。その彼に白羽の矢があたったのは、もともとスピーチをする予定だった外交官・北原秀雄が不慮の出来事で足を骨折してしまい、北原の友人ということから名前が上がったのだった。しかも世界からの信頼が篤かった嘉納治五郎とゆかりの人物となれば、平沢こそその任にふさわしい、それは長年嘉納をそばで見てきた田畑と、盟友でありIOC委員でもあった東京都知事・東龍太郎(松重豊)の一致する思いだった。
しかし、メディアで反対論を唱えてきた平沢が容易に首を縦に振るわけもなく、一計を案じた田畑は、終戦からここ(昭和34年)までたどってきた15年の足跡を「15分で!」語り始めた。田畑版「東京オリムピック(への道)噺」である。
ここでやっと、第39回のお尻のあたりまで戻る。昭和20年夏、一面焼け野原となった東京をさまよう田畑は、かろうじて焼け残った日本橋のバー「ローズ」へ。ママのマリー(薬師丸ひろ子)が占っていた相手は、古今亭志ん生(森山未來)の消息を案じる妻おりん(夏帆)だった。そんなローズで田畑は、東と松澤一鶴(皆川猿時)の前で「東京オリンピックをやる」と大風呂敷宣言。ここから、まさにいだてんのごとく田畑は走り始める。
昭和23年、戦後初のロンドン五輪に参加できなかった日本だったが、田畑はその悔しさを晴らそうと「裏オリンピック」をぶち上げた。、当時GHQに接収されていた神宮プールでの開催許可をぶんどり、ロンドンでの水泳競技と全く同じ時間のスケジュールでレースを実施したのだ。
この時、200メートル自由形でロンドンでの最高タイムを上回る世界新記録で優勝したのが古橋廣之進。この活躍に“フジヤマのトビウオ”の称号で呼ばれることになった古橋を演じたのは、平成のトビウオ・北島康介だ。平泳ぎで200メートルで2大会連続金に輝く本物のオリンピアンの泳ぎはさすがというほかない。平泳ぎのエキスパートがクロールを演じてみせるという貴重な映像は、レース直後に飛び出した浜松弁混じりの「気持ちいいじゃんね〜」の一言とともに長く語られることだろう。
この戦後最初の伝説誕生で勢いに乗った田畑は、GHQに君臨するダグラス・マッカーサーを説き伏せアメリカ遠征を実現。さらにヘルシンキ、メルボルンと2度のオリンピックを日本選手団長として経験する。その間、政治家たちの動きの鈍さに業を煮やし自ら衆院選に打って出(るも落選)たり、嘉納治五郎が渾身の思いで作った神宮外苑競技場を国立競技場に生まれ変わらせるなど、田畑自身の人生も目まぐるしく展開。そんな中で、東京五輪招致への思いは夢から確信へと育っていった。
で、最初の昭和34年のシーンへと戻る。だが、「15分」と言われた話は30分(ドラマ内でもちょうど30分だった)に及ぶも全く長話を聞かされた平沢は一向に納得しない。裏オリンピックの話に至っては「往生際が悪い」と辛辣だ。そこで平沢は田畑に問う。「なぜそこまで東京オリンピックにこだわるのか」と。
ここで、1つの単語が登場する。「Paix」(ペ)だ。これは、第1回でフランス大使館に招かれた嘉納治五郎が大使から聞いて覚えた言葉だ。意味はもちろん、「平和」だ。
そこで田畑は、5年前に水泳の遠征で訪れたマニラでの出来事を語り始めた。
現地に到着した田畑は、宿泊するホテルの前で現地の少年に声をかけられる。「サインがほしいのか、まってろ」と愛想よく振る舞う田畑に向かって、少年は突然「人殺し!」と石をぶつけた。すると周囲にいた街の人々も少年と同じように日本の選手たちに罵声を浴びせかけ、田畑らは慌ててホテルの中に逃げ込む。田畑は言う。「帰ろう。俺たちは歓迎されていない」。すると、選手団の一人が応じる。「日本人はすぐ『自粛しろ』っていうけど、泳ぐしか能がない俺たちは泳ぐことをやめていいことはあるか」。そして田畑たちは建物の入口に群がる現地の人々に向かって、一斉に帽子を取り深々と頭を下げる。
回想が終わり、田畑は平沢に向かって言う。「我々が世界平和など、おこがましい。彼らにとって戦争は終わっていなかった。アジア各地でひどいこと、酷いことをしてきたおれたち日本人は、面白いことをやらなきゃいけないんだよ!」。
「面白いこと」。その言葉に平沢は嘉納治五郎が話した「これまでで一番面白かったこと」を思い出した。平沢がその時嘉納治五郎に言ったのは「それは、東京オリンピックじゃないですか」。嘉納はお決まりのセリフで返した。「そこだよそこ!」。今度は平沢の番だ。田畑たちに向かって叫んだ。「そこだよそこ!」。
こうして平沢は最終スピーチを引き受けることになった。帰途、平沢はそのことを小学生の娘に話すと、娘は「オリンピック、オリンピック〜」と、国語の教科書の一節を語り始めた。平沢はこの教科書の話を、スピーチの場で引用し、これが東京招致支持を取り付ける切り札となった。
と、45分足らずの尺で14年間を駆け抜け、話は一気に1964年東京五輪の準備へと突入することになった。これまで、細かすぎるほどに戦前のオリンピックと日本の関係を語ってきたこのドラマのリズムからすると、これほどの話を1周分にまとめてしまうのは実にもったいないというのが正直な思いだ。フジヤマのトビウオの話だけでも45分費やしていいはずだ。言ってしまえば、「いだてん」は1年では全然足りない超大河ドラマなのだと思う。だが反面、あえて1話だけ、一気に長い時間をあっという間に駆け抜けてしまう回があってもこのドラマらしくていいとも思えてしまうところもある。結局どっちもありなのかもしれない。
もう一つ、この回の最後に出てきた、そして第1回でも触れていた小学校の教科書の話に触れておきたい。といっても、ドラマに出てきた「五輪の旗」については世代的に私は知らない。私が覚えているのは小学4年生の時(昭和51年)の国語の教科書に出てきた「ゼッケン67」という話だ。内容は、東京五輪の陸上10000メートルのエピソード。セイロン(現スリランカ)から出場したラナトゥンゲ・カルナナンダは、トップから3周遅れとなり、最後は孤独の走りを強いられるも最後まで気力を維持し完走する。近代オリンピックの父ことピエール・ド・クーベルタンが残したと言われる「参加することに意義がある」という言葉はこういう選手のためにこそあるという言い回しで締めくくられていたと記憶している。
周回遅れながら最後まで走り続けたカルナナンダ(朝日新聞の記事から)
ドラマ「いだてん」がこのエピソードに触れてくれるかはわからないが、田畑がいう「面白いこと」の中にはこんな話もあったことを、はからずも思い出してしまったのである。
ドラマの画像は公式サイトから引用
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?