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清少納言から学びたい、これからの生活様式

コロナ禍による非常事態宣言が出されて以降初めてのnote投稿になる。

この間、思うところは様々あったものの、頭の中がまとまらず、テンションもだだ下がりで執筆意欲が枯れ果てていた。

1ヶ月半が過ぎ、ようやく前向きな気分になれそうな空気を感じつつある。感染者数が何人になったの、陽性率がどうだの、様々なものさしが行き交っているが、自分としては正直なところ、この自粛なるモヤッとした空気に耐えられなくなっている。

今週中に宣言が解除されるかどうかは知らないが、もう我慢の限界を通り越している。来週からは自分に正直に生きるようにしたい。湿度が高くなるこの時期にマスクをして外を歩くなんて煩わしさの極みだ。息苦しいだけじゃない。メガネが曇って前方の視界を遮るのだ。危険極まりない。コロナより遥かに問題だ。だから、人と隣り合ったりすれ違うような場所以外では、マスクは顎に下にずらして歩いている。

だいたい、ソーシャルディスタンスだかソシアルダンスだか知らないが、一定の距離を開けたり、コンビニのレジのようにビニールシートで遮られている状況で、その上マスクをしなきゃならない正当な理屈はどこにあるのか?もうちょっと賢く振る舞えないのかと日々思い続けるところである。

そんな思いを巡らせている折、こんな記事を見つけた。


平安時代随一というべき女流エッセイストと、鎌倉後期のフリーライターの対決型比較論である。

詳しい内容はリンク先をじっくり読んでもらうとして、自分的に引っかかったのはこの二人の思考の違いだ。

簡単に言うと清少納言はアウトドア派、兼好法師はインドア派と言っていい。

普通、進歩的なアウトドア派のほうが時代を先取りしている印象があるが、二人の立ち位置は逆である。おそらく兼好法師は、300年前の清少納言を意識し、真っ向から否定にかかったのだろう。

今どき流に言い換えれば、清少納言は「家にこもってばかりなんて嫌!自粛反対!」と言い切る翔んでる女代表、一方の兼好法師は「ステイホームこそ至高。外に出るなんてめんどい」とぼやく引きこもりさんとでも言うべきか。

どっちが正しいかなんて野暮はいいっこなしだ。自分としては清少納言の気持ちにかなり近いが、うちにいたほうが楽と思う感覚もわからなくない。

ただ、お上風情から「自粛の意識がたるんでる」などと偉ぶった態度を取られるとどうにもカチンと来る。「上等だぜ!表へ出てやるわ!」てなもんだ。

もちろんコロナウイルスにかかりたくなんかない。でも、人間は何のために日々生きているのか、その答えをはっきりさせることは必要だ。そのために誰かが言った自粛要請ばかりに従っていては前になんか進めない。

いわゆる「新しい生活様式」なんて、クソくらえだ。清少納言が枕草子でも書いていた、“すさまじきもの”は「いとすさまじ」とはっきり言える自分を改めて心がけたい。


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