レコード夜話(第2夜)

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 私が大学を卒業して、大学院の学費や生活費を稼ぐべく夜間中学校に勤務することにしたのは、昭和46年(1971)の4月のことでした。この年の6月に、都内の4校――私の勤務先であった墨田区の曳舟中学校などに、特設学級としての〈日本語学級〉が併設されたのでした。中国や韓国などから引き揚げて来た人たちや、これから先に引き揚げて来る人たちに向けて〈日本語〉を教えるための学級だったのです。
 翌年の昭和47年(1972)の7月に田中角栄が首相に就任し、9月には「日中共同声明」の調印が行なわれたことだったのでしたが、その当時にはそこまではわからなかったけれども、既にそのための事前対応がなされていたということだったんですなぁ。
 そうした背後の事情はとにもかくにも、中国や韓国などから引き揚げて来て幾ばくもなくて、日本語の未だよく解らない彼ら・彼女らにとっても、前回に述べたようにTV番組の「8時だよ!全員集合」は、たいそう人気がありました。コントやらギャグやらがふんだんに盛り込まれてあって、単にことばだけはなく、舞台の上でアクションとともに展開されていたからでした。
 少しでも早く日本語を覚えたいという彼らにとって、わかりがよかったらしくて、それがまた好んで見た要因でもあったようでした。習得につながる最も好都合な手段のひとつだったのです。しかしながら、けっして最良の手段ではなかった――と、私としては言うよりなかったのですがね。
 私たちが授業で教えても、なかなか日本語を覚えられない・覚えてくれない彼らでしたが、教えもしない日本語を覚えてきて、私たちをびっくりさせることがよくありました。皮肉なことに、彼らがいち早く覚えてくる日本語はというと、私たちが教室で教えようとして苦心していた姿かたちの正しい日本語なんぞではなくて、むしろ教えることを回避しておきたいような卑俗なことばの方が多かったのです。それらをどこでどうやって覚えて来たのかといえば、「8時だよ!全員集合」などの存在が大きかったのでした。されば「あんたも好きねえ」だとか「ちょっとだけよ」などといった表現を覚えて来ては、教室で私たちに披露してくれたりしたのでした。
 記録によれば、先んずる昭和44年の秋からザ・ドリフターズのその「8時だよ!全員集合」という番組が始まっていたようでした。私自身は当時からめったにTVは見ないでいたことでしたし、まして夜間中学校に勤務してとなっては土曜日でも授業がありましたから、もちろんのことに番組を見ることはありませんでした。
 そうしたなかでは、多少なりとも実態を知らなくてはならないだろう、我が身の好むところではなくてあろうも、せめてはレコードでも聞いてみよう――と思い立ったことでもあったのでした。そうしたことは前回も記したのでしたが、彼らの曲にあっては「チョットだけヨ・全員集合」だの「ほんとにほんとにご苦労さん」だの「誰かさんと誰かさん」だのだのといった曲を、レコードで聞いたりしていたのでした。
 当時は、ザ・ドリフターズの番組ばかりに人気があったわけではありませんでした。歌謡曲の世界にあってもいわば全盛期であって、歌謡番組がずいぶんとありました。私自身はほとんど見たり接したりすることもなくていたのでしたが……。昭和46年には、小柳ルミ子・南沙織・天地真理の初々しい女性歌手がつぎつぎと登場して来てアイドルとなって、歌謡界に大きなブームを巻き起こした年でもありました。彼女たちは〈新三人娘〉と称されたりしたのでしたが、その存在もまた大きかったのです。日本語学級に学ぶ生徒たちだけでなくて、むしろ生粋の日本人の生徒たちに人気があって、彼女たちの曲を口ずさんでいる様子をしばしば見かけたことでした。
 さらにはその翌年に西城秀樹・郷ひろみらの男性歌手や、女性の三人組のキャンディーズが登場して来て、歌謡界全体の人気が沸騰していった時期だったんですなぁ。
 浮かれた世間の空気と、中国や韓国などから引き揚げて来て、少しでも早く日本語を覚えたいという彼ら・彼女ら彼らとのはざまにいたからこそ、私のなかに珍妙な〈思いつき〉が出来して、歌謡曲のレコードを集めることになったのでした。されば、そうしたあれやこれやを、次回以降に少しずつ記してみたいと思います。

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