見出し画像

レコード夜話(第16夜)


●ひとつ曲のなかに「きれい」と「美しい」との両方の語が使われてある曲として、「禁じられた恋」(森山良子)と「恋人たちの港」(天地真理)とを挙げて少しばかり云々してみたのでしたが、「危険なふたり」(沢田研二)にもあって、女性のことを「美し過ぎる」とか「きれいな顔」などと表現してあって違和感はありません。
 しかるに、三田明の「美しい十代」という曲にも、両方の語が使われてありました。タイトルに「美しい十代」とあり、曲のなかでもそう歌われてあります。「…… いつもこころに二人の胸に 夢を飾ろうきれいな夢を 美しい十代 あゝ十代 ……」といったようにです。
 この曲は昭和38年(1963)に発売されたものです。歌っていた三田明は十代の若い歌手で、彼はまさしく〈美しい〉十代のまっただなかにあったのです。しかるに、私もまた当時は中学三年生で、私自身も十代の半ばにかかってありました。私のそれらの日々はけっして〈美しい〉といえるような毎日ではありませんでした。それでもそれなりに人生はこれからだとは認識していた年ごろでしたから、この歌を聞いたときにはくすぐったいような気持ちになったものでした。
 「美しい十代」という言いは、十代の少年少女たちにとっては、気分を良くさせて、洒落た表現であることよ――と、今でも思っているのです。しかしながら同時にまた、歌のなかの「きれいな夢を」という表現には、いささかの違和感を感じていたのでした。
●「きれいな夢」といった表現は、ほかにも例えば「折鶴」(千葉紘子)のなかにも「誰が教えてくれたのか 忘れたけれど折鶴を 無邪気だったあの頃 今は願いごと …… 「わたしは待っています」と伝えて いつでもきれいな夢を ……」とあったのです。
 後年CDの時代になってから、娘が好んで聞いていた小野正利の「キレイだね」という曲を聞かされたのでしたが、そのなかにも「……キレイだね キレイだね キレイな髪も キレイな夢も きっと僕が守り続けるから ずっとこのまま ……」などとありました。そうした表現に触れるたびに、私のなかではいささかの違和感が産まれてきてしまうのでした。さよう「きれいな夢」というのは、どのような夢のことなのだろうか。ほかの人たちにあっては「きれいな夢」といわれたら、色彩のあざやかな〈色つきの夢〉をイメージしてしまうことはないのだろうか。フルカラーの夢を見たら、それは「美しい」夢なのだろうか。――などと。いったんそんな思いに取りつかれてしまうと、自分自身のなかにあってさえも、もう少し探索してみようかなどとなってしまったのでした。
●歌のなかで「きれい」という表現がなされてある曲は、おびただしくあります。ほんの少しばかりではあるけれど、例を挙げてみましょう。
 「心に笑顔 絶やさない 今もおまえはきれいだよ」→「ふたり酒」(川中美幸)・「めしは上手く作れ いつもきれいでいろ」→「関白宣言」(さだまさし)・「今春が来て君はきれいになった」→「なごり雪」(イルカ)・「きれいなバラには棘がある きれいな男にゃわながある」→「麗人の唄」(梓みちよ)・「指さえ触れぬ きれいなだけの 恋なんて」→「あなたにあげる」(西川峰子)・「黒いインクがきれいでしょう?」→「心もよう」(井上陽水)・「こんなにきれいな 茜空」→「帰ってこいよ」(松村和子)・「きれいさっぱり あきらめて忘れよう」→「あばよ東京」(北島三郎)・「傾いたこの部屋も 綺麗に片づける」→「嫁に来ないか」(新沼謙治)・「あなたの胸に より添い 綺麗になれたそれだけで」→「時の流れに身をまかせ」(テレサ・テン)・「きれいと 言われる 時は短すぎて」→「桃色吐息」(高橋真梨子)・「大きな胸に 抱きとめられて きれいな泪 こぼすのよ」→「青い果実」(山口百恵)などなどとあるのです。
 それにつけても、次から次へと「きれい」とあるものを拾い出すのさえ虚しいことだというのに、そうした作業をつづけながら、そのうえに「黒いインクがきれいでしょう?」と〈?〉つきで尋かれても、どう返答したものだろうか。あるいはまた「傾いたこの部屋も 綺麗に片づける」というのだけれど、何を散らかしてそんなに部屋を傾けてしまったのか。自分で「きれいな泪 こぼすのよ」だなんて言うのはあつかましいのでじゃないか。――などと、ついついよけいなことまで思いが広がってしまって、我ながら苦笑せざるを得なかったことでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?