レコード夜話(第9夜)
こちらが覚えてほしいと思うようなきちんとした日本語は後回しにして、TV番組でなら歌謡曲でなら、そこで使われている日本語を、彼らは比較的容易に覚えてくるのです。そうであるならば、いっそ歌謡曲を授業に取り込んで、それを素材にしたところで日本語の学習をしてみたらどうか。おもしろがってくれて、うまくいくかもしれない。私はそう考えて、己の趣味からは遠かった歌謡曲をあらためて聞き始めたのでした。と、そうは言っても、当時の私には、具体的なことはいくらもわからなかったのです。どの曲にどのような表現がされてあるのかということになると、日ごろ歌謡曲に接することのほとんど無かった私としては、まさしく手をつかねることだったのです。私の脳裏にある程度の歌謡曲では、いくらもカバーできない。しかも古臭い曲の方が多いのです。
しかしながら、日本語学級の現実を思えば、そんなことでくじけてもいられない。そうであってみれば、レコードを入手して、歌詞をあたって、そこから日本語を学ぶことのできるような材料を拾い出してみよう――などと、かなりばかばかしい無謀なことを試みることにしたのでした。もとよりただ単に歌詞を調べるだけならば他にも手段はあろうとも、やはり曲を聞きながら納得してもらうためには、いざという際に音源となるべきモノが必要でもあろうかと思ったからでした。
歌謡曲に趣味が無かった私には、もとより好きな歌手だのがいたわけでも、また嫌いなジャンルだのがあったわけではありませんでした。だからして補助教材の素材として採りあげようとした曲は、おのずと雑多なものになりました。そうせざるを得なかったというのが真相でしたけれども。ただただ日本語としての問題意識を持って見て、何かしらの要素なり現象なりが認められるかどうか――という点にだけ観点を絞って、耳を傾けて聞いていたのです。
手当たりしだいに歌謡曲を聞きながら、日本語として取り上げるに足る何かしらの要素があって、「これは」と思った点があれば、そうした事柄とともに、曲名や歌手名を控え、しかるのちに文法的な説明やらなにやらをノートに書きつける……ということを、試みていたのです。そうしたメモをいくつも拵え、ファイルしたものを「日本語ノート」と題しておいて、そんな「日本語ノート」づくりの作業に、まさしくいそしんだことでした。
歌謡曲を素材にして作りあげた「日本語ノート」でしたが、私のその「日本語ノート」は「ことばとは何ぞや」――というところから始めてあったのだから、格調が高かったんですなぁ。いやあ、せめても自賛して、自分に対して恰好をつけておいてやりたいのですよ。で、それはというと……。相手に何を言いたいのか、何を言っているのかが、ちやんと伝わらなくては、コミニュケイションの手段にもならず、その役割を果たせません。そんなことは誰しもわかっていることですよネ。そのわかりきっていることさえも、歌謡曲を引き合いに出して、確認してから入っていったというのですから、なかなかに凝ったものだったのでありました。
歌謡曲を素材にして作りあげた「日本語ノート」にあっては、いわば「ことばとは何ぞや」というところから始めてありました。何を言いたいのか、何を言っているのかが、相手にちやんと伝わらなくては、コミニュケイションの手段としての役割を果たない。そうした実例が、歌謡曲のなかにはちゃんとあるのだから、なんともおもしろい。
森山加代子の歌っていた「じんじろげ」という曲は、そうした一例ですなぁ。この「じんじろげ」という曲は、タイトルそのものからしてそうですが、歌詞もまたそうした???で埋め尽くされてあるのです。歌い出しの「チンチクリンのツンツルテン マッカッカのオサンドン お宮にがんかけた 内緒にしとこう」という部分まではワカル。しかしそのあとから出てくる「ドレ ドンガラカッカ ホーレツラッパノツウレツ マージョリン」だの「ヒッカリ コマタキ ワイワイ ヒラミヤパミヤ チョイナダデイヤ」だのだのと歌われてはワカラナイ。これらは語彙としては日本語にありますまいから、意味不明の歌となっていて、つまりは「わけのわからない」歌ですよねえ。
こんな歌謡曲がなぜか流行ったのですから、世のなかというのは実におもしろいものです。いや、他人事のように言うべきでない。私などもこの曲がおもしろくて、ずいぶん聞いたし、今なおしばしば聞いて喜んでいる。
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