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レコード夜話(第17夜)


●前回には「きれい」という語の使われ方に関わって歌謡曲のなかに見てきたのでしたが、こんどは「美しい」ということばで表現されているケースについて、いくつ触れてみたいと思います。
 「あの時 同じ花を見て 美しいと言った二人の」→「あの素晴らしい愛をもう一度」(加藤和彦+北山修)・「一人で見ている 海の色 美しすぎると 怖くなる」→「魅せられて」(ジュディ・オング)・「ふたりが結ばれた 美しい夜明けよ」→「涙の季節」(ピンキーとキラーズ)・「恋の終わりは いつもいつも 立ち去る者だけが 美しい」→「わかれうた」(中島みゆき)・「青空のすんだ色は 初恋の色 どこまでも美しい 初恋の色」→「白い色は恋人の色」(ベッツィ&クリス)・「美しい人生よ かぎりない喜びよ」→「愛のメモリー」(松崎しげる)などとあります。
 漫画週刊誌に連載されて人気を呼び、映画にまでなった「同棲時代」。映画では由美かおるのヌードが注視されて、主題歌を歌った大信田礼子の方は少々ワリを食った感じでしたが、その「同棲時代」というレコードにあっては、ナレーションに「もし 愛が 美しいものなら それは 男と女が犯す この過ちの美しさに ほかならぬであろう」とあったものでした。「バス・ストップ」(平浩二)の曲のなかでは「バスを待つ間に 心を変える うるんだその眼の美しさ 忘れるためにも」とあって、形容詞ではなくて名詞形で「美しさ」と使われていました。
 これらのように、やはりよく使われて来てはいるのですが、それでも「きれい」ということばに較べると、その使用頻度は少ないのは確かに認められるのです。
●前回に列挙した「きれい」という表現を、「美しい」ということばと置き換えてみる。あるいは上記の「美しい」というそれらを、「きれいだ」という語に置き換えてみる。そうしたことをしてみると、意味合いのさして変らない場合もあれば、やはりオカイイとしか言い得ないケースもまたあったりするのです。ここではそれらについての細々しいことは、言及しないで済ませておくけれど。
 そうしたことを思いやってみていると、またさらに別なる視野が広がってくるんですなぁ。それというのは、美麗なことを表現するのに、「きれい」や「美しい」だけでなされいるわけではない――といったことがらなのです。いわゆる類語による表現ということになるのです。
●たとえば「きよい」という語があります。この語は、「きれい」なことをさして言うことばである――とこう言えば、そんなことは言うまでもないことじゃないかと、言われてしまうことでしょう。
たとえばのことに、「清」の字をあてて「きよ」と読むような姓(清岡・清川など)や名前(清・清子・清美など)を名乗る人は、全国に少なくないのです。さればこそ、そこに使われてある「きよ(し)」が「きれい」なさまをいうことばであることを、認知していないなどという人は、まずいないだろうと思うのです。さりながら、ふだんの生活のなかにあって、名前としてならばともかくも、この「きよい」ということばが、日常語・生活語としてどれほど用いられているものでしょうか。このことばを使っている人がどれだけいるか――となったら、今日ではそう多くはないのではないかと、私には思われるのです。
 しかるに、歌謡曲のなかでは使用事例は乏しいけれど、まだまだ命脈を保ってあるのです。芹洋子が歌った「四季の歌」には「春を愛する人は 心清き人」と表現されてあります。またペギー葉山の歌っていた「学生時代」には「賛美歌を 歌いながら 清い死を 夢みた」などと歌われてありました。西郷輝彦の曲の「君と歌ったアベ・マリア」には「ステンドグラス そのかげで だれが清らに 歌うのか」などとありました。
●「あでやか」という語は、もとは清音で「あてやか」といって、高貴で上品な美しさを表現していたことばでした。森進一の「花と蝶」には「花が女か 男が蝶か …… 春を競って あでやかに」などと歌われています。また井上陽水の「心もよう」には、先に挙げた「きれい」のほかに、「あざやか色の春はかげろう」との表現もあって、「あざやか」いう語が用いられています。
 そうしたあれやこれやの〈美しい〉ことをいう表現を見て来るほどに、私としては思うのです。さだまさしは「いつもきれいでいろ」と「関白宣言」で歌っていたのですが、私はというと「いつでもキレイじゃつまらない」とこそ、ひとりごちているのです。

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