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レコード夜話(第15夜)


●中国や韓国から引き揚げて来た生徒たちから、疑問が寄せられていたのは「きれい」という語の使い回しに関してでした。日本に来て驚いたのは、以前に住んでいた中国や韓国とは違って、どこもかしこが〈きれい〉だと目に映じたことであり、またいたるところで「きれい」ということばを耳にする――といったことのようでした。
 中国では、我が家の前だけは掃除をする。掃除をするといっても、ゴミは隣の家の方へ押し出しておく。隣の家では、またそれをその隣の家の方へ押しやっておく。そのうちに風が吹いてきて、ゴミをどこかへ浚って行く。それでもって掃除をしてキレイになったことにしていた。それだのに、日本へ来てみたら、そうじゃあない。みんながそれぞれにちゃんとゴミを始末していて、町のなかは真に〈きれい〉になっている。街を歩く女の人たちは、それぞれに〈きれい〉な服を着ていて、〈きれい〉に化粧して、あれも〈きれい〉これも〈きれい〉で羨ましい――などというのでした。
●日本語の習得が少しずつ進むにつれて、そのうちに「美しい」ということばにも接することがあったりすると、はて「きれい」と「美しい」とは、その意味合いがよく似ているように思われるのだけれど、どこがどのように違うのだろうか、日本人はどのように使い分けているだろうか――と、そうしたことが疑問になって来たことのようでした。
 「美しい服」「美しい女の人」「美しい花」などといった言いにあっては、それらの「美しい」という形容詞を「きれいだ」という形容動詞に置き換えて「きれいな服」「きれいな女の人」「きれいな花」などと言うことはできるし、日本人もそのように使う人はいっぱいいる。でも、それならば「美しい人生」とか「美しい姿勢」を、「キレイな人生」とか「キレイな姿勢」とも言うだろうか。そう言ってもオカシクないのだろうか。彼らの意を汲んだうえでいうならば、そうしたことに思いを及ぼさないではいられなかったのでしょう。
 品詞としては片や「美しい」は形容詞であり、一方の「きれい」は名詞であり形容動詞とあって、両者は異なるけれど、その意味合いにおいては相通うところがあります。日本語がわかるようになりたい、使えるようにしたい――と思うような彼ら彼女らにとって、存外に難しく思われたのは「きれい」といい「美しい」ということばの実際的な差違だったようです。そうしたことを問題として、私の許に提起されたことが少なからずあったのです。
●森山良子が昭和44年(1969)に歌った「禁じられた恋」というそれは、そうした観点からするとおもしろい曲ですね。歌のなかに「禁じられても 胸の炎 燃え立つばかり 消えないの …… こんなきれいな恋を なぜわからないの 愛し合う美しさ わかってほしい」とあって、「きれい」と「美しい」の両方が使われてあるのです。
 それではさて、このフレーズにある「きれい」と「美しさ」との双方を、試みにそれぞれ置き換えてみたらどうでしょうか。「こんなきれいな恋を」というのを「こんな美しい恋を」に置き換えても、おかしくはありません。と言うよりも、むしろ「美しい恋」といった方が適切ではなかろうかと、私としては思うのです。その一方で「愛し合う美しさ」を、名詞形にして「愛し合うきれいさ」と表現しようとすることは文法的にもオカシイのではあるけれど、それでも「愛し合う」のに「きれい」を配するとすれば、用語としてもそれはオカシイというものでありましょう。美しく愛し合うことは不自然ではないにしても、きれいに愛し合うのは難しい――ということになるんでしょうかなぁ。
●なにも森山良子の曲だけのことではありません。天地真理が歌っていた「恋人たちの港」という曲にあっても両方の語が使われていて、次のようにありました。
 「はじめてよ二人して 港へと来てみたの キラキラと船灯り 夢見ているみたいにきれい …… 海ぞいのこのお店 窓ぎわへすわったの 美しいことばかり なぜ私とあなたにあるの …… 」
 この曲にあっても「美しいことばかり」が私とあなたのあいだにあっても、そんなものかと思われないでもないけれど、「きれいなことばかり」があるのだとなったら〈ん?〉となるのではないでしょうか。私としてはそう思うのだけれど、どうでしょうか。両語に関わって、ちょっとオカシイのではないか――と思われる表現を見い出す曲は、実はまだまだ他にもあるのです。

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