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レコード夜話(第6夜)

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 前回に、対称(二人称)の代名詞としてまず挙げるべきは〈あなた〉という言いである――と記したことでした。そうして、そのような表現がなされてある歌謡曲の例として、小坂明子の「あなた」を挙げてみました。もとより〈あなた〉という呼びかけがなされている曲はとなったら、たとえば「知りたくないの」(菅原洋一)だの「おふくろさん」(森進一)だの「お嫁にいくなら」(安倍律子)だのだのと、無数にあるといってよかろうところでしょう。
 私の手持ちのレコードのなかにあってさえも、タイトルに〈あなた〉が使われている曲はというならば、「あなただけを」(あおい輝彦)・「何があなたをそうさせた」(いしだあゆみ)・「あなたしか見えない」(伊東ゆかり)・「あなたと生きる」(小川知子)・「あなただけでいい」(沢田研二)・「あなたの勝ちだわ」(朱里エイコ)・「あなたの心に」(中山千夏)・「あなたにあげる」(西川峰子)・「あなたに」(箱崎晋一郎)・「あなたを待って三年三月」(森昌子)などなどとたくさんあるのです。
 なかには「貴女がえらんだ僕だから」(美樹克彦)だとか「貴方をひとりじめ」(和田アキ子)などのように、表記が「貴女」だの「貴方」だのとなっているものもある(曲のなかでは「貴男」だってもある)けれど、いずれにしてもこれらに歌われてある〈あなた〉という言いこそが、姿かたちの正しい対称(二人称)の代名詞として広く認識されているのですよねぇ。
 たとえ姿かたちが正しい表現だとしてさえも、いつでも相手を〈あなた〉ということばだけで以って言うのか――となったら、そうではない。おそらくは、日本人のすべての人にあって、きっといろいろな言い方で相手に呼びかけていることだろうと思います。
 中国語では、相手をさして言う対称の代名詞は、基本的に〈ニィ〉の一語だというのです。だとするならば、そうしたなかで生活してきていたところの中国から引き揚げて来た人たちが、日本に来てみて、そうした点でも戸惑うのは無理からぬことだったのです。
彼ら彼女らは、単に「あなた」ということばだけではないところの、周囲の日本人が実生活で使っている対称の代名詞のあれやこれや――たとえば「きみ」や「おまえ」や「あんた」などに触れて、どういう時にそれらを使うのか、使ったらよいのかと、疑問にも思い、詳しい使用法と差異とを質問してきたりもしたのでした。
 それらは日本の社会における相手との関係のありかたに起因し、また依拠しているのですが、ともかくも日本語の問題としてこれに答え、また説明しなくちゃならない。しかしながら、生まれてから育ってくるあいだに、相手との関係のなかで、日本人が身につけてきている使い分けなのですから、誰しもそうそう簡単には説明しきれないでしょう。
 もとより〈あなた〉だけに疑問が生じてそれが問題になるというのではありません。自らをさしていう自称(一人称)の代名詞にあっても、そうしたことは同じように横たわっているのです。そうしたことばの背景にある事柄などは、知らないし、解らない――といった日本に来たばかりの引揚者やその子弟に、いったいどうすれば諒解してもらえるものでしょうか。
 そうしたいかにも身近にして具体的な疑問が、つぎつぎと日本語学級の専任教諭としての私の許に持ち込まれて来ていたのでした。ですからして、そのような疑問のせめて一部分なりとも、歌謡曲でも聞いてもらって「なんとなくわかったような気がする……」などとなってくれるならば、私としてはそれだけでも大助かりだ――というものだったのですよ。といったわけで、歌謡曲を頼みにしようと思ったというわけだったのですよ。あははのは。
 例えばのことに、対称(二人称)の代名詞ということになれば、そんなときには、ダーク・ダックスが歌っていた「あんな娘がいいな」を聞いてもらったらどうだろうか、と。
 「あんな娘がいいな お嫁さんにいいな …… なんて名字かな 名前で呼びたいな …… なんて呼ぼうかな “おまえ”“きみ”“かあちゃん” ムー」などと歌われてありましたからね。もっともこの曲にあっては、3番のそれも末尾に至ってやっと並んで出て来るに過ぎない――といったところに難がないでもない。そしてまたこの一曲だけでもって対称(二人称)の代名詞の呼びわけ・使いわけの極意がつかめる――といったようなものでも、もちろんないのですがね。

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