レコード夜話(第1夜)

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 夜更けに、独り、己が部屋で、歌謡曲のレコードを聞く。片手にジャケツトを持ち、もう一方にはブランディグラスを持って……。などと、以前にはそんな真似もしていたのでした。こう書くと、いかにも私が酒飲みであるかのように思われるかもしれないし、またいかにも歌謡曲に趣味があるかのように思われるかもしれない。しかしながら真相はまったく違っていて、私は酒は飲めないのだし、歌謡曲ともけっして熱心につきあってきたわけではないのです。実のところ、酒の味などはほとんどわからないに等しい。だから「ブック」なる陶器入りのブランディを求めては、少しばかりグラスに注いで、ちびりちびり舐めながら、自分自身に対していささか恰好をつけたりして、そんな真似をしてきていただけのことなんですなぁ。近時にはその「ブック」も容易に入手できないので、今となってはそれさえも無しになってきてしまっているのが現状なのですが。
 酒だのブランディだのの云々はさておき、歌謡曲だって、じつは私は好きでもなんでもなかったのです。若いころからそうだったし、今でもそう。さりながら、クラシックなどのCDやLPレコードに比して、ただただ歌謡曲のシングルレコードばかりがむやみにたくさん手許にあるのです。きちんと数えてみたわけではないから、正確な数はわからないけれど、ざっと千枚有余の歌謡曲のシングルレコードがあります。歌謡曲のシングルレコードというのは、ふつうにはEP盤とかあるいはまたドーナツ盤とか言われていたものでして、今となっては過去の遺物ともいうべきそんなものばかりがたくさんあるのです。しかしながらさりながら、私の手許にあるそれら歌謡曲のレコードこそが、私の青春時代を思い返してみるのに際して、切っても切れない小道具になっているんですねえ。
歌謡曲が好きでないとか好きでなかったとか言いながら、それではなぜにその類のレコードばかりがたくさんあるのか、あるいはまたそんなもの聞いてなにをしていたのか――そうした私的な思いのあれやこれやを、あらためてジャケットを見たり聞いたりしながら書きつけてみようかと思っているのです。
 私は昭和46年(1971)の春に、東京にあって大学を卒業すると、そのまま引きつづき大学院に進学しました。大学を卒業してからのその先それ以上は、親のスネは齧れるものではありませんでしたから、昼は勉学をし、夜は都内の夜間中学で教え働いて、なんとかやりくりしてゆこうとしたことでありました。そんな背景があって、墨田区の夜間中学校に特設されたところの日本語学級に勤務することにして、私は中国や韓国などからの引揚者やその子どもたちに、日本語を教えていたのでした。日本に引き揚げて来たばかりで、日本語の何もわからない人たちに、どうやっていかに早く正しい日本語を教えたらよいのだろうか――当時の私は、日々に悪戦苦闘していたものでした。
 しかるに、授業で教えてもなかなか日本語を覚えられない彼らでしたが、教えもしない日本語を覚えてきて、私たちをびっくりさせることがよくありました。それらをどこでどうやって覚えて来たのかといえば、TVを見てのことだったんですね。当時のTVでは、そうしてその影響という点で、ザ・ドリフターズの「8時だよ!全員集合」という番組がいちばんでした。彼らの番組はたいそう人気がありました。PTA筋などから俗悪番組として指弾されながらも高い視聴率を誇っていました。毎週土曜日の夜に放送されていて、当時は土曜日といえども未だ夜間中学校では夜に授業があったのです。されば、私自身は勤務のさなかに重なる時間帯でしたから、その番組を見ることなどは殆どなかったのだけれど……。せめてはレコードで、その一端でも聞いてみようと思ったものでした。
 たとえば「ミヨちゃん」や「いい湯だな」などといった曲などを、一回一回レコードプレーヤーの許にまで行ってはとっかえひっかえしながら、ひとしきりよく聞いたものでした。後年、私は故郷の伊那谷に舞い戻ったのですが、子どもたちが手元から離れていってからというものは、自家用車を駆って日本中の温泉地を巡り歩くなどという無謀なことを重ねて来ています。その当時にあって「いい湯だな」の曲を聞いているだけで、現実には少しも満たされなかった思いが、あるいは反動となって駆り立てたのかもしれない――などと、今に至ってぼんやりと思ってもいるのです。
 もちろんのこと、かの曲のなかに歌われてある温泉地のそのすべてに、行って浴しました。登別・草津・白浜・別府と。そんなことは、自慢にもなんにもなりませんが。

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