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レコード夜話(第7夜)

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 前回には対称(二人称)の代名詞について少しばかり云々してみたけれど、今回も引きつづいてそうした人称代名詞に関して触れてみたいと思います。
 「あなた」という言いが正格なものとしてあり、それを少し崩した言いとして「あんた」がありますが、崩されてあるぶん親しさや馴れ馴れしさもあり、あるいは爛れた雰囲気さえも醸すことがあります。一方で、相手を小馬鹿にしてみたり、突き放すような拒絶の意思を表白することもできるのであって、おもしろい語形です。園まりと植木等とが掛け合いで歌っているところの「あんたなんか」という曲(「逢いたくて逢いたくて」B面)には、タイトルそのものに使われてあるのですが、かく掲げられてあるだけで、その内容がおおよそ推察できるのではありますまいか。
 「あなた」や「あんた」とは出自の異なる対称の代名詞として、よく使われて来ているところの語に「きみ」や「おまえ」がありますが、それらももちろん歌謡曲のなかに頻出して来ていました。むろん今日の曲にあって、そうだろうと思いますが。
 相手をさしていう対称(二人称)の代名詞の方を先に取り上げてしまったけれど、自分をさしていうところの自称(一人称)の言いにあっても、事情としては同じであることは言うまでもありますまい。姿かたちの正しい言いとして〈わたし〉を挙げることに、誰しも異論は無かろうかと思います。その〈わたし〉をタイトルに掲げた曲もまたそれなりにあって、たとえば「わたしの彼は左きき」(麻丘めぐみ)・「わたし女ですもの」(伊東ゆかり)・「わたしの城下町」(小柳ルミ子)・「わたしの青い鳥」(桜田淳子)・「わたし祈ってます」(敏いとうとハッピー&ブルー)・「私が死んだら」(弘田三枝子)・「私は泣いています」(リリィ)などなどとあります。ましてや曲のなかで歌われているものとなったら、おびただしくあることは言うまでもありません。
 「あなた」が「あんた」に崩されて使われるケースがしばしばあるそのように、「わたし」にあっても「あたし」などとなって歌われたりもして来ていることも同様です。さらには出自の異なる「おれ」や「おいら」や、あるいはまた「ぼく」などが使われて来ていることもまた然り。なかには「うち」だとか「わい」だの「われ」だのといって歌っている曲もあるにはあるけれど、それらはレアなケースというべきでしょう。
 そうしたなかにあってのいささかコミカルな趣のある言いにも思われるのですが、「おら」を以ってと歌っている曲があります。「帰って来たヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)だとか「俺ら東京さ行ぐだー」(吉幾三)などがそう。前者にあっては、ヨッパライ運転で「おらは死んじまっただ」となったのに、天国に行ってまで酒を浴び続けていたものだから、とうとう神様から追い出された挙句に「雲の階段を ちょっとふみはずして おらの目がさめた 畑のど真中 おらは生きかえっただ」などと、コミカルに歌われていました。また、後者にあっては、表記こそ〈俺ら〉の字を充ててはあるけれど、実際には「オラ」として「俺らこんな村いやだ」というフレーズが繰り返し歌われてあって、これもまたコミカルな仕立てになっているのでした。
 こうした事柄に思いを及ぼしていると、自称と他称との対比・対照でとらえる有りようこそがより適切な見方である――ということに、誰でも気づくものでしょう。市井の人たちにあっても「わたし」には「あなた」が、「おれ」には「おまえ」が、「ぼく」にあっては「きみ」が、それぞれ対応して出てくるケースが多い。歌謡曲の世界では「俺はお前に弱いんだ」(石原裕次郎)や「僕のそばには君がいる」(三田明)などと、タイトルからしてそのままのものもあります。曲のなかにそうした対比を見ることは、むろん当たりまえのようにあるのです。相手が女性とは限らなくて、男同士というケースでも、そうしたことは認められるのですが。
 女性の言いという視点でみると、相手をさして言うのには「あなた」が、自分をさして言うには「わたし」が圧倒的大多数を占めている。実生活においても、相手が同性であってもそうでしょうが、歌謡曲では男に対してそう呼びかけて用いてあるケースがほとんどですが、いずれにもせよそれが基本的な有りようになっていますね。
 しかるに、おもしろいのはそこから先なのでありまして、それは次回に譲りましょう。

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