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死してなお影響力を残す安倍晋三氏

世論調査で岸田内閣支持率が30%台に下落したとの報道があった。閣僚の相次ぐ辞任など任命権者としての資質が問われたことが大きく作用したように思う。しかし、この1年で失政といえることはどれほどあったのだろうか?と翻って考えるとあまり思い浮かばない。円安もエネルギー高騰も内閣の失政が招いたことではない。むしろ、アベノミクスによる前代未聞の金融政策とズブズブともいえる財政出動の結果、政府(財政)頼りともいえる甘えの産業構造が定着し、肝心の成長が果たせなかったツケが国際競争力低下を招き、現内閣はそうした重い政治課題を背負わざるを得ない宿命にある。その中でも、対症療法ではあるがそれなりに的確に対処してきたと私は評価している。低金利・円安という二大障壁の中にあっても、欧米ほどの高インフレになっていないのも、対症療法が功を奏した結果ではないだろうか?
もちろん、一部のエッシェンシャルワーカーにしわ寄せが及んでいるとか国債に頼った財政運用の結果赤字がさらに拡大するとかいった批判もある。しかし、これらの問題は一朝一夕に解決できる問題ではないのも事実だ。なぜなら、米国並みにモノと金の正面バトルを演じ金利水準を一気に引き上げたら、金利負担だけで一気に財政が破綻するばかりか、長期にわたる低金利で成り立っている産業の根幹が失われ連鎖的に倒産が爆発的に増加するだろうから。
10年間のアベノミクスによる一連の財政政策による“甘えの構造”は、それほどわが国の産業構造を糖尿病のような状態にしてきた。こうした患者が過度に血糖値を下げると死に至る可能性もある。いまの日本経済はまさにそうした状態にあるのではないだろうか。今日の財政政策の基礎を築いたケインズも、景気のコントローに政府は積極的に介入すべきと主張しているが、同時に、決して長く続けるべきものではないと唱えている。つまり、病状を好転させるためのカンフル効果はあっても、長期間続けると麻薬のように全身が機能しなくなると警告を発している。10年間も継続されたアベノミクスによるわが国の産業構造は、まさに麻薬のようにそれが切れると強烈な禁断症状に襲われる事態にまで陥っており、成長戦略など到底計画できる状態ではないところにまできている。経済通の岸田総理もそうした事態は十分把握した上で、山林の中に着地させるような極めて困難なソフトランディングに向けて苦慮しているのではないだろうか。安倍元総理のような派手でキャッチーで大衆受けしそうな方針を容易に打ち出せないのも、私にはよく理解できる。なにしろ、財政拡大にしろ財政規律にしろ、どちらを強く打ち出しても副作用が大きすぎるから。

岸田内閣を苦しめているもう一つの要因は、言わずと知れた旧統一教会との政治家の癒着問題である。
この教団の根底には、戦前戦中の“日帝(日本帝国主義)”への怨念が深く作用しているように感じている。そこには今なお拭いきれない韓国人の対日感情も存在しているようだ。だから、献金を積むことでサタンと化した先祖の罪業を拭うという考え方が生じる。この教団に対する韓国での一般国民の意識はあまり伝わってこないが、生活破綻に陥っても献金をやめない日本人信者の行動を異常と感じているか、過去の罪業を償うのは当然と感じているか、おおらく見解は双方に分かれるのではないだろうか?
さて、「先祖の犯した植民地支配という罪を償うためにあらゆる献金をしなさい」と主張する旧統一教会が安倍派を中心に浸食を図れたのは、いかに祖父の影響があるとはいえ政治信条から見れば実に奇妙というしかない。なぜなら、安倍政権は植民地支配を含む保証問題は1965年の日韓請求権協定で「解決済み」とする立場を強く貫いてきたからだ。その結果、2019年以降3年間も首脳会談が行われない異常な状況が続いた。そうした政治外交を傍目に、他方では“先祖の罪業を献金で補え”と主張するカルト教団と手を結ぶことで派内の勢力拡大の手段に利用したとすれば、まさに非国民の所業と言うべきだろう。自民党保守本流を自認する村上誠一郎議員が(ご本人は否定しているようだが)こうした発言を咎められたが、前後の関係から見れば私は実に正当な評価だと思っている。
岸田内閣の閣僚が旧統一教会と関わっていたとの批判を受け、任命責任の観点から岸田内閣の支持率が低下したとすれば、実に的外れな評価と言わざるを得ない。理由は二つある。
第一に、信教の自由が憲法で保障されている限り、閣僚選定の際に教団の指示を受けたか否かまで問いただすことは非常に困難であること(仮にそれを行ったとしても、数ある支持母体の中から、今社会問題となっている教団名まで申告する議員が何人いただろうか)。第二に、内閣改造時に岸田総理は教団との関係を点検した結果岸前防衛大臣たち7人は閣外に去ったが、組閣後に山際氏らグレー閣僚が何人も出てきたことが批判の的になった。しかしながら、細田氏-安倍氏とつながる最大派閥の安倍派が構造的に教団の支持を受けていたとすれば、何らかの教団との関わりが露見する確率が極めて高いと考えざるを得ないこと。
こうしたことから、問題は総理の任命責任といった矮小化された論点ではなく、政治と宗教との関わりそのものの妥当性を検証すべきであると考える。少なくとも、宗教団体が議員候補者に推薦確認書を署名させること自体が、政教分離の原則からみれば大問題だろう。なぜなら、政教分離の原則こそが“信教の自由”を保証しているからである。憲法第20条に明記されているとおり、宗教団体が政治上の権力を行使できないことが信教の自由を保障する上での前提になっている。つまり、妄信者を擁する団体を支持母体にすれば民主主義が捻じ曲げられてしまい、一部の宗教団体が政治権力を掌握すれば信教の自由すら無に帰す懸念があるからである。そもそも、推薦確認書は業界団体の主張を候補者が踏まえるか否かを確認するための手段であり、業界団体に属する職員であっても自由な投票行為は認められている。これが、宗教団体によって洗脳された信者であれば、事情は大きく違ってくる。

私自身は、とりわけ岸田氏や岸田内閣への熱心な支持者ではないが、昨今の世論調査の結果には首をかしげざるを得ないのは以上の理由からである。
折しも、3年ぶりの日韓首脳会議がカンボジアで行われた。日韓関係の修復は両国のみならずアジアの安定化に向けた悲願でもある。その一歩が記された意義は実に大きい。経済にしろ外交にしろ、地味だが確実に仕事をこなしている岸田政権への評価はもっと高くてもいいのではないだろうかと思うのである。

思い返せば、今の政局は7月の安倍氏暗殺事件から始まったと言ってもいいようだ。旧統一教会問題が浮上したのも、この襲撃事件が引き金になった。思いもよらない大事件に動揺した国民の安倍元総理への哀悼感情が高まり、岸田総理は国葬をもって追悼する決断をした。しかし、その後の旧統一教会との関係が露見するにつれ安倍氏をはじめとする政治家への疑念が高まり、国葬が行われた9月の末になると国葬反対運動が起こった。岸田総理からすればとんでもない見込み違いだったのだろうが、もはや引き返すことはできなかった。そうした複雑な気持ちは、事務的だと批判された弔辞にも現れているような気がした。その後の政局にも、安倍氏の影は色濃く反映され、相次ぐ閣僚辞任などギクシャクした状態が続いている。
一方の経済財政問題でも、アベノミクスの収拾に苦労している最中に、ロシアのウクライナ侵攻が生じ、天然ガスをはじめエネルギー供給が滞り価格高騰の危機的場面が訪れている。さらに、コロナの第8波も生じようとしている。
昨今の政治環境は、おそらく誰が為政者であっても困難なかじ取りを強いられたのではないだろうか。その中で奮闘している現内閣に、もう少し理解があってもいいのではないだろうかと思うのである。現状を打開しわが国が国際社会の中で生き残るには、国民と痛みを享受する構造改革が必須である。これは同時にアベノミクスとの決別(効率化と合理的経済原則による小さな政府)を意味するが、そのためには政治への信頼が必須だからである。

思えば、7月に凶弾に斃れた安倍氏。彼の戦後最長の在任期間のなかでいったい何を残したのだろうか?死者に鞭打つ気は毛頭ないが、終わり(出口戦略)の見えないアベノミクスで残された膨大な財政赤字、その結果止めるに止められない円安傾向、いまだ藪の中のモリカケサクラ疑惑と公文書偽造問題、教団との関係によって生じた選挙の公平性棄損と、その結果増殖したカルト系議員集団などなど批判する材料には事欠かない。その彼が凶弾に斃れたことで新たな政局の火種が生じ、今なお政権基盤を危うくしているとすれば、死後まで大きく日本を動かした実に稀有な政治家と言わざるをないのかもしれない。

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