現代詩と思考
写真の本はガメ・オベールことジェームス・フィッツロイ氏のブログからの書籍化で『ガメ・オベールの日本語練習帳』。プロフィールによれば英国生まれで幼少のころ日本に滞在し、長じて再び来日、主に義理の叔父から日本語や日本文化を学び、日本語の練習にと叔父のゲーム会社のHPにブログを書き始める。現在はNZで暮らす。投資家。
そんな経歴と、Twitterによるとおそらくまだ30代後半という年齢から考えて、この書籍の空恐ろしくなるほどの知識量と洞察力、そして文章力に圧倒された。
いったいどうしたら母国語でない言語を用いてこのような思考ができるのだろうか。その読書歴を眺めても古典から哲学、文学、評論まで広く深く、論旨は明快で論理的、容赦なく日本社会の矛盾を突くが、文章は自由闊達で感情に強く訴え、愛情にあふれている。
50年以上使ってきた日本語を、僕は彼の十分の一も使いこなせていないような気がして愕然としている。彼は元来数学が得意で、かつ欧米人らしく論理的な思考がベースになっているのは疑いないが、日本文学、なかでも現代詩にはすべてを諳んじるほどに親しんだという。なるほど、詩か。
今まで「詩」というものには興味を持ったことがなかった。学校の教科書には載っていて、授業で習った詩はそれなりに覚えている。萩原朔太郎、まどみちお、谷川俊太郎など。でも詩って小説以上に「食えない仕事」ってイメージがあって、「誰が読んでいるんだろう?」と不思議に思っていた。いったい詩の役割ってなんなんだろう?
そんなわけでちょっと詩に興味が出てきた。
物事を考えるときに僕たちは「言葉」で考える。その「言葉」の力を強く鍛え上げるのはもしかしたら詩なのではないだろうか。“ポエム”というふわふわしたイメージが、詩というものをなにか曖昧で感傷的なものだと誤解させてきたように思う。
かつて詩はもっと力を持っていたのだろうか。
もっと社会と関わっていたのだろうか。
そして詩を読むことは難しいのだろうか。
詩を書くことは、果たして武器になるのだろうか。
近所の書店に行って詩集を探してみたが、5冊しか置いてなかった。
短歌や俳句よりもかなり小さな扱いだった。今の日本での詩のポジションはそんなとこなんだろう。知人にも俳句を詠む人はいるけど詩を書いている人はいないし。もしかしたら照れくさいから隠してるのかもしれない。
詩といったいなんだろう?それはこの世界を理解するためになにか役に立つような気がする。まだ分からないけれど、今更ながら少し勉強してみようと思う。
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