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書くことと読むこと

本をある程度読んでいるとセレンディピティというのか、偶然の出会いみたいなことは結構ある。

だから昨日久しぶりにnoteに記事を書いて「本が読めない」だの「そんなときはまず書いてみる」だの「呼吸と一緒でまず吐く」だのと書いてみて、その後でいつか読もうと思って先延ばしにしていたこの本を開くと第一章にそのままのことが書いてあったのだが、けっして驚かない。そういうものだから。欲しいときに欲しいことが書いてある本に出会うものなのだ。

ところで「それにしても最近本が読めなくなったなぁ」、と思ってこの本を手にとって最初に思ったのは「そもそもこの本が読めるのだろうか?」という不安だった。だってまるで「薬が飲めるようになる飲み薬」みたいなものでしょう?それ飲めないから困ってるのに。

まぁその心配は不要で、するすると読める内容だったので小一時間で読了。なかなかいいこと書いてあるな、なにしろ僕と同じこと書いてるんだから。

冗談はともかく、自分にとって読み慣れた種類の本、同じ考え方の著者の本などは当然のことながらこうしてすっと読めるのだけれど、もうちょっと骨のある本、難解な本を読むにはある程度条件が整わないと難しい。

僕の場合いちばん読書が進むのは通勤電車の中で、しかも立っているときだったのだが、通勤がロードバイクやクルマに変わってからはその時間が消えてしまった。帰宅後は今のアパートメントにはソファがないので仕事用のアーロンチェアに座っている事が多いのだけれど、背筋が伸びすぎて意外に本は読みにくい。ベッドに座っても今ひとつ座りが悪くて丁度いいポジションが見つからない。結局部屋の中をうろうろ歩きながら読んでいることが多い。そういえば本屋での立ち読みもかなり進むからなぁ。読書に適したソファとオットマンを手に入れるのが当面の夢です。

小学生の頃、いちばん読んでいた頃は朝図書室に行って上限である5冊を借りてきて、授業中もずっと読んでいて帰りがけに返却してまた5冊借りて帰り道を歩きながら読み、その日のうちに読み終えてまた翌朝図書室に…ということもあった。たぶん1年も続かなかったと思うけれど。

概してあまり安楽すぎない、ちょっと緊張感がある状況のほうがよく読めるみたいです。旅の楽しみは移動中の読書だったりするんだけれど、新幹線の中や飛行機なんかは快適すぎてすぐ眠くなっちゃうのがいけない。ホテルのベッドも、寝そべって読むと首が痛くなるのであまり読めなくなったし。

そういえば子供の頃は本を読みながら、そこで得た知識を台所で夕飯の支度をしている母親に話すのが常だった。母親は特に学があるわけでもないのだが、どんな話題でも感心したように「へぇ、すごいね、」と聞いてくれた。子供なりに母親に伝わるように工夫して話すので、そうするとすごく記憶に定着する。それで子供の頃は本当にいろんなムダな知識を身につけていた。でも大人になると多くの人はそんな相手がいなくなる。読んだ本の話題を普通に話せる相手がいたらいいのに、と思う。そのうちSiriとかGoogleアシスタントとかがそうした雑談に応じてくれるようになるのかな。でもすごく博覧強記なのも困るなぁ。「ねぇSiri、デイノコッカス・ラジオデュランスっていうバクテリアは人間の何倍もの放射線を浴びても死なないんだってさ」「ええ、あいつらときたらひとつの遺伝情報に対してゲノムを4セット持ってるから損傷した部分の塩基を残りの3つと照合してあっという間に修復しちまいますからね。毎時6000万マイクロシーベルトの放射線に耐えたという記録もありますよ」……読書してるより物知りになれるかもしれないけど気分よくないなぁ、きっと。

まとめると、「とりあえずちょっと書いてみたら、早速本が一冊読めた」、という話でした。



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