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◆2020/01/21「学道用心集」提唱/ネルケ無方老師


昨日はネルケ無方さんとお会いしました。

本の印象と違わずイケ僧で、きちんと僧侶で真摯で誠実でいらっしゃり、一照さんより更に仏教に宗教的であると感じました(当社比)

伺った話の中で持戒、破戒、無戒の話が特に心に残る事に。

寺族得度に於いても戒を受けるときに「良くたもつ」と言って戒を持つ事を三度述べて宣言する場面があるのですが、つまりは戒を守る事を誓う訳で。

しかしながらネルケ老師が仰るように一般生活の中で戒を遵守することの難しさは皆わかっている訳です。

そんな中で破戒になるくらいなら最初から無戒で良いんじゃないか?と言うことにもなり得る可能性は高いですよね。

だけれども、老師は破戒であっても無戒であってはいけないと言われる訳です。
無戒は破戒よりも危ういと。

無戒であるということは、戒を破ってしまったときに生じる反省すらももたらされないと。

成る程、と腑に落ちる言葉を頂きました。

やはり都度自分を顧みて鏡とするものは必要だと思う次第で、それが宗教の戒であれ哲学であれ歴史だとしても同じで。

持戒を理想だと一蹴せずに、端から守れないとしないで、持戒から外れてしまい破戒になる自分を認識した上で少しでも戒に近づけるように真摯である姿勢こそが大切なのだなぁと。

破ったら即ゲームオーバーなのでは無く、挑み続ける態度が大切だと。
端から無戒で有ることは前進と自己省察を生まないと言う事だろうと考えてきました。

あとは、發菩提心の道元さんによる使い方が年齢とともに変化している様が面白かったですね。

軸を中心に振れ幅が有り、最初からきちんと固まって居なかったって所に道元さんの人間くささが有るし、年々変化し続ける様を見せてもらう事で、自分の学びも年々変化していって当たり前なのだと、少し安心できました。
ネルケさんが色々該当箇所を資料に引っ張ってまとめて下さっているので、そちらも学びたいと思います。

しかし、佐曹青会員低体温だった🤣

「学道用心集」提唱であったのだけれど、ネルケさんが講義全部を通して仰られたかったことは、宗教者である根っこは持っているのかと言うことだと私は受取りました。

仏教者である以上仏教を使って救うわけですよね。

でも、自分が仏教で救われたことの無いものに仏教で救われますよなんて言われても響かないわけです。

ネルケさん自身色々な宗派宗教の方々から曹洞宗以外への宗旨替えを迫られたり、宗教の根っこを問われてきている訳で。

果たして、同じことを今された場合、曹洞宗に帰依する僧侶として根っこを持って話すことができるのかと。

青年会会員の自己紹介で自らが大切にしている事を聞かせてほしいとネルケさんが仰られたのは、そこが聞きたかったのでは無いかなぁ…。

老師は、確固として仏教で救うと言う根っこが無いものが宗教者の位置に居るのかって事を突きつけてきたと思うんだが…。

居眠りしているし、いびきも後ろから聞こえるし、休み時間や懇親会でもネルケさんに突撃してお話伺う僧侶はいないし(僧侶2名+一般の私のみでネルケさんに押しかけると言う贅沢さ)

寺で生まれたから継いだってのは言い訳で、出ることもできた筈(しがらみがあっても、信教の自由の世だよ)。
それなのに寺にいて僧侶であるということは、曲がりなりにも宗教者と目される位置にいるからには、開祖並の技量持ち合わせていなかろうが、宗教者で「あろう」とする真摯さ誠実さと、人に仏教の面白さを伝えるプレゼンテーションを行うための根っこが必要では。

プレゼンするからには、如何にそれが面白いかを自分がまず体感しないと熱量出ないし、低体温でとりあえずふんわりよさげなこと言って「寄り添いたい」とか言ってたってプレゼン無理なんじゃ無いかなぁ。

娘に、私が好きな本を勧めるときは目一杯プレゼンしてその要素の面白さを伝えて布教しなければ読んでもらえない。
仏教と本の布教を同じ俎上にと思うかもしれないけれど、そんなに離れたことでも無いのでは。

一般出身の僧侶の方が熱量高いし仏教大好きだなと会うたびに感じるのは、寺出身僧侶の切羽詰まり感の無さと、今まで仏教を布教するのを怠ってきた現状をそのまま維持しているのを見るからなのか。

曹洞宗の開祖が主軸とした坐禅にしても、僧侶が座れない足痛いとか言っている現状もまた不可思議で、禅宗宗派が坐禅否定したらそりゃ禅宗じゃ無いのではとか。

足が痛いを理由にして坐禅無理だしきついしとかそう言う会話を僧侶以外に聞こえるようにするあたり坐禅への理解が『普勧座禅儀』読んでもいないのかと突っ込みたくなる次第だし(禅宗よ、禅宗!)、椅子坐禅や経行、立禅もあるし、食事も禅だし。なんなら生活全て禅では無かったのか(少なくとも曹洞宗僧侶の口からそう教わったが)。

誠失礼な一般人の感想で申し訳ない限りではありますが。

僧侶って大変よねと思いつつも、僧侶は職業では無く、生き方であって、しかも宗教者なわけで。
教義を胸はって布教できないなら降りる必要がある立ち位置だと思っています。
低体温だとそりゃあ新興宗教に熱量負けるわと思う次第です。

そんな感じに無茶苦茶失礼な部外者受講決め込んでいた私に自己紹介の飛び火が来たのは、ひとえに日頃からの思索のクオリティがこんな感じに失礼だった報いかと反省😅

僧侶多数の前でいきなり自己紹介振られて本音垂れ流し失言してネルケ老師の爆笑を頂いたのは、もう自業自得です。

いやでも本当に道元さんって変態だと高校の時思ったのですよ。
好きだった作家さんが仏教をネタに本を書かれておりまして、そこで出会った『典座教訓』が気になって読んでみたのですが、読んでしみじみ書いたこの人変態だって思ったわけでして。
絶対神経質で、身内に居たらやっかいだって。

そんなやっかいそうなお方が始めた曹洞宗にお世話になり、しかもネルケさんにお会いできて、やはり仏教は面白いなぁと思います。

使える使えないと言う表現は失礼かも知れませんが、主婦していて雑事多い中、理想だけでは正直時間割けません。しかし、実際人間関係で"使える"上に、さらにその先広くは世界を優しく穏やかにする要素を感じています。他に良い道を見つけるまでは、私は仏教を子どもとの間で面白がろうと、使わない選択肢なんて無いと思っています。

今年ネルケ老師の講座をお願いしてきたので、上手く進めば7月あたりにまたお話を伺える楽しみができました。

奥さんと子どもさんへの姿勢がすごく素敵で、ニヤニヤしながら伺いました。

しかし、そこをネタで終わらせてはいけないという生真面目で誠意のある言葉に、妻帯する日本僧侶の可能性を見せていただきました。

そう、仏教は一番身近な人との間でこそ、生きているときに使える要素だと、使ってきた身としては私の経験値分だけ確信を持って言えます。
夫婦間、子どもとの間でも。
ここが私の仏教の根っこですね。

この一連の感想をTwitterで呟いたら、なんとアナログ生活っぽく携帯もお持ちでなかったネルケさんからリツイートされていて、あまりのノーマーク、フェイントぶりに白目剥いたというのはもう笑うしかない話😂

道元さん変態って書いていた記事まで殊更リツイされているのを見ると、案外老師もそう思われたのでしょうかね…(笑)

今度伺ってみよう🤣

[画像]ネルケさんの名刺は一枚ずつ手書きでいらっしゃる素敵さでした🙏

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