【短編小説】失った命よ、さようなら。

【概要】妊娠8カ月であなたを失った、君と僕の6日間の話(4,264字)

―1日目―

「胎動がないの」


君が泣きながら僕に訴えてから一日が過ぎようとしていた。


街の小さな産婦人科へ連絡して君を連れて行くと、すぐに離れた別の街の大きな病院に入院することになった。
 
移った先の病院ですぐに検査を受け、僕らは医師からお腹の中のあなたが既に息絶えていることを告げられた。

その瞬間、自分の中にある何か大きなものがごっそりと抜け落ちていった感覚があった。全身の毛が逆立つ様子が自分でもわかった。

そして僕以上に、8カ月の間、24時間ずっとあなたと一緒に過ごしていた君の悲しみはどれほどだっただろう。

昨日まで確かにあった希望に満ちた幸せな生活を僕らは一晩で失ってしまったのだ。

今、君は既に息絶えているあなたを産み落とすために必死にもがいている。じっと手を握ることしかできない僕はただただその様子を呆然と見届けることしかできなかった。

たとえ既に失った命であったとしても、一目この世界であなたに会ってみたいという気持ちは君も同じなのだろう。

この日生まれたあなたの亡骸は、とても小さく愛らしく、その表情はまるで生きたまま眠っているかのように安らかだった。


―2日目―

僕は夕べ、君とあなたを宛がわれた病院の個室に置いて、自宅に戻った。

昨日既に急遽の休みを一日もらっていたので職場に出て事情を説明しなければならないし、何よりあなたが生まれてきた時のために用意していた服を病院にもっていかなければならない。

朝、職場に出勤したら課長から一週間休みを取るように言われた。仕事はこちらで何とかするから今日の午後から半休をとって奥さんのそばにいるようにと。このことは今でも課長をはじめ職場のみんなにものすごく感謝している。

ほとんど仕事に手がつかないまま午後を迎え、退社した。

夕べ車を運転した自宅と病院の間の閑散とした道路も、昼間はうって変わって混んでいて、病院へと急ぐ僕を苛立たせた。

病室に戻ると君はベッドの中で泣いていた。保冷剤と一緒にタオルに包まれたあなたの冷え切った体を、僕は夕べぶりに抱きかかえた。

失った命を抱きしめて、僕は君の横たわるベッドに腰かける。

「泣いたっていいよ」僕はそう君に語りかける。ここには街の喧騒は届かない。

「笑えなくたっていいよ」僕ももうきっと笑えない。

「朝が来たって どこへも行かないよ」僕はずっと君とあなたのそばにいる。

今、僕らにとってこの病室が世界の全てで、いっそ世界なんてこのまま終わってしまえばいいと思う。

しかしそうはいっても、簡単に世界が終わるはずもなく、今日と明日の境界線は深い夜に溶け込んでいく。


―3日目―

夕べは病室で君とあなたと共に一晩を過ごし、朝が来た。

起きて早々、今日一日ずっと君とあなたのそばに居られるものだと思っていた僕が医師から告げられたのは、君が退院するのが3日後で、その日までにあなたを荼毘に付す準備を進めなければならないことだった。また、そのために必要な手続きについての説明を受けた。

あなたと一緒に居られる残り時間はあと3日。その間に僕は手続きを全て済ませなければならない。

気持ちの沈み切った体を無理やりにでも動かし、僕は病院を後にしなければならなかった。そして僕は今、再び君とあなたを置いて病院の外にいる。

方々に電話をかけ、街を駆け巡った。死産を証明する書類の提出、火葬場の予約、あなたの棺となる箱の手配。一つ一つのやり取りに際して多弁になる気力はなかった。

別れたくないあなたとお別れをするために動いている僕は、書き並べられたプログラム通りに動くロボットのようだ。

余りにもショックが大きかったのもあるが、やるべきことが山詰みの今は泣いている余裕もなかった。

僕らのいた病室の外の世界はあわただしく、世界は僕らを置き去りにしてとどまることなく前に進んでいた。
  
今日のうちに出来ることを一通り終えたら病院へ戻った。

君とあなたと僕、本来これから先長い年月を共に過ごすはずだった僕らが一緒に居られる時間はあとわずか。今この一瞬一秒が何よりも大切で、あなたといられる今のこの一瞬の前では過去も未来もこの世界から消え去った。

いっそ、この世から消えてあなたのそばに行きたいという君に、ほんの数日前まで確かに存在した8カ月間の幸せだった思い出を一つ一つ語る。

今はお互いに悲しくて仕方がないけれど、あなたといた8カ月を決して不幸な思い出にはしたくないのだ。そのためにも、君にはこれからも僕と一緒に生きて欲しい。

君を抱きしめて、その呼吸を感じる。この変わらない空間の中で、君が息をしてくれていることを確認し、君が生きている事実に安心する。


―4日目―

病室で一夜を過ごし、朝自宅に戻り、シャワーを浴びたら諸手続きのために街を駆け回り、また病室へ戻ってあなたを抱きかかえる。

夜に時々見回りに来る看護師の目を盗んで、あなたを君と僕の間に挟んで川の字になって眠る。

一度見つかって、ベッドは患者さんのためにあるのでルール上添い寝はできないと小言を言われた。

しかしあちらも僕らを気遣ってくれているらしく、注意されたのはその一度だけで、半ば黙認されている感じがした。

ベッドの中で君と語り合う。

「この先、未来はあるの?」そんなのわからないよ。
ほんの数日前まで思い描いていた未来が消えてなくなってしまった今、改めてこれからの未来を考える気力なんて、もはや持ち合わせていない。

「過去に後悔してることはあるの?」そんなの当たり前だよ。
妊娠8カ月で死産となる可能性は統計上0.2 %。医師にも原因がわからなかったようなことについて何がいけなかったのかなんて考え始めたらきりがないのはわかりきっているけれども、あの時もっとこうしておけば、なんてことはいくらでも思いつく。それは君もきっと同じだろう。

「この先に希望なんてあるの?」それもわからないよ。
正直なところ本当に、この先どうすればいいのかも、希望をもって生きられるのかもわからない。ただ思うのは、失った命であっても、あなたにはずっと僕ら二人のそばにいて欲しい。

今更何をどうしたって、何もできないし、何も変わらない。

この夜、君と抱き合いながら、僕はあなたを失ってから初めて声をあげて泣いた。


―5日目―

昨日であなたを荼毘に付すための手続きを一通り整えた僕は、今日一日病室にいることにした。

一瞬一秒を噛みしめるように過ごし、少しずつ体力だけは回復してきた君と、かわるがわる、そして時には一緒にあなたを抱いた。

この日、君の退院許可が降りた。すなわち、明日僕らはこの病室を後にする。そして明日の夕方には、いよいよあなたの肉体は消え去り、僕らの手の届かない遠いところへ旅立ってしまう。

眠れないまま君と肩を寄せ合い、冷たいあなたの頬をなぞる。

“どんな言葉をあなたに贈ろうか”

この最後の夜にそんな答えのない問いを考えてみる。

暖房の効いた部屋とはいえ夜明け近いこの時間の冷え込みは僕の指先を冷やすには十分なものだ。

“どんなことからあなたに話そうか”

今あなたに語り掛ける言葉は簡単に見つからないけれど、あなたといつか話したかったことはたくさんある。

僕ら二人のなれそめや、あなたがお腹にいたときの話、そして記念日のたびに君からもらった手紙をあなたと二人でこっそり読み返すなんて、きっと楽しかったことだろう。

でも、そんな未来はもう来ない。

失った命に捧げるために用意したテーブルの上の花束が、カーテン越しの月明りを受けて病室に長い影を落としている。

眠れないまま時間が過ぎる。夜明けが近づき、閉じたカーテンの向こうが徐々に明るくなってくる。

時間は戻ることも止まることもなく、もうすぐ僕らはこの8か月間の出会いと別れの終着点へたどり着く。

―6日目―

朝が来て、荷物をまとめる前に、自宅から持ってきていた乳児用の洋服を君と二人であなたに着せた。それからあなたを小さな小さな棺に寝かせ、花束から花を一本一本抜いてあなたを囲むように飾った。

最初で最後のおしゃれをしたあなたは、僕らの入れた色とりどりの花に包まれ、とても美しく愛らしかった。

お世話になった医師や看護師さんにお礼を言い、入院中に必要だったたくさんの荷物を車に詰め、君とあなたを連れて一度自宅へ戻った。

生まれてきて初めて、僕らの普段住む場所へ帰ってきたあなたに、僕らは「おかえり」と声をかける。

夕方の火葬場の予約時間までかなり時間があるので、一度棺からあなた寝床へ移し、君とあなたと僕で川の字になってしばらく休むことにした。

これもまた、僕らのできる最初で最後のことなのだ。

世界が終わることはなく、時計の針は容赦なく進み、この世界の片隅に僕らだけ取り残され絶望の淵に立っていたとしても、今この瞬間、生きてあなたのそばに居られるのは僕ら二人だけなのだ。


そしてその時が来た。

訪れた火葬場は平らでただっ広い場所にあった。昔は米軍の射爆場だったらしい。

あなたの収まった棺の蓋を閉め、僕らは無言で、ゆっくりと炉の中へ送られてゆくあなたを見送った。

あなたはこれから本当に遠いところへ行ってしまうのだな。

一刻の後、君と二人であなたの骨を拾い、小さな小さな骨壺に納めた。

僕らに言葉はなかった。あなたが生まれて僕らが一緒に居られたのはほんの数日でしかないけれど、せめて僕らの愛があなたの救いとなっていることを、二人で祈った。

骨壺を抱えて火葬場を出ると遠く彼方から西日が差し、雲一つない抜けるような青空がどこまでも続いていた。

失った命よ、さようなら。
 
喜びも悲しみも分け合ったこの8カ月の月日の果てに、僕ら二人が今心から望むのはささやかな安らぎだった。


―それから―

あれから1年以上が経つけれど、今でも僕らは毎朝、二人であなたに手を合わせる。

お墓を作るという話も両親から出たが、僕ら二人はあなたの遺骨をとても手放す気にはなれなかった。

僕は時々あなたの夢を見る。夢の中のあなたはとっくに大人になっていて僕に笑顔を投げかける。肉体を離れたあなたはきっと、時間と空間を超越した精神世界の住人になってしまったのだ。

あなたを失った悲しみは決して忘れられない。その一方で、あなたが君のお腹の中にいた幸せな8か月間の思い出も決して忘れられない。

夢の中のあなたは、僕ら二人が生きていくことを願ってくれていると言ってくれた。

もしかすると僕の勝手な妄想でしかないのかもしれないけれど、それを君にも伝えた。

君と二人できっとそうなのだと信じて、僕らは今日もひたすらにかけがえのない今を、あなたとの思い出を胸に生きている。


(おわり)


注:この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

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