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『さかなのこ』を観て「才能」とは何かを考える


 そういえばこの間、職場の同僚に勧められて映画「さかなのこ」を観ました。この映画は、実在する人物であるさかなクンの半生をコミカルにしたような作品で、魚が大好きな主人公が、「おさかな博士」を目指してひたすら魚と生活する物語です、ざっくりまとめると。実際、この映画ジャンルはコメディでしたし。半生なのになぜか本人が出演してたし…

 ただ映画を観るだけではもったいないので、本作を見て感じた人間の「才能」について書いていこうと思います。なお、記事の特性上、当然のようにネタバレしますので気になる方は先に本作を視聴されてから戻ってきてください。




才能とは知的好奇心から生まれる技術

 本作を見て、「才能とはなにか?」と考えた結果、私のなかで「知的好奇心の周りから生まれる技術」だと結論づきました。言い換えると、「才能」とは、人にはできないことができる「技術」であり、その「技術」の源は「知的好奇心」だということです。

 なぜそう思ったのか。以下、本作における「才能の発現のしかた」と「才能の見いだされ方」に主眼を当てて論じます。


才能の発現のしかた

 主人公が成功を収めた(つまり、才能が発現した)形は、本人が自覚していたものとは違っていました。

 主人公は自他ともに認める魚好きで、四六時中大好きな魚のことを考え、見て、釣って、「絵」に描いて、食べていました。そんな本人の夢は「おさかな博士」で、高校卒業後は魚に関する仕事を転々とするも、うまくいかずじまい。ところが、旧友からの依頼で描いた魚の「絵」が周囲に評価され、最終的にはテレビに出演、本が出版されるまでに至りました。

 そう、主人公の才能は「魚」ではなく「絵」だったのです。実際、ストーリー終盤でテレビに出演した時も、「おさかな博士」ではなく「イラストレーター」として出演しました。また、その才能の片鱗は、幼少期のころから発現していて、小学校の頃は、同級生から「漫画家になれるんじゃね?」と言われていましたし、学校の先生たちは、主人公が作った新聞に描かれた魚の「絵」に感心していました。

 私から見ると、この主人公がもっていた才能は、他人には描けないような生き生きとした魚の絵を描く技術だと感じられました。そして、その技術を支える源こそが、魚に対するあふれんばかりの知的好奇心だったのかなと。


才能の見いだされ方

 才能の見いだされ方も特徴的で、必ず他人、それも親しい人を介して見出されていました。本作では、主人公自らが考えたアピール方法ではその才能を評価されませんでした。しかし、かつての仲間たちが示した方法・内容で才能を発揮すると、またたくまに評価されました。

 結局、どれだけ自分を理解しているつもりでも、視野が狭くなって見えなくなっているのかもしれませんね。他人の目、それも、自分をよく見てくれている人の目から見ると、案外あっさり見つかるところであっても。



才能を発現させるのは難しい

 人が才能を発揮して、活躍する姿を見られたのは気持ちよかった一方で、人の才能を発現させることは非常に難しいとも感じられました。ハッピーエンドでよかったね。やっぱり「好き」を貫くのがいいよね。では終わらないメッセージがあったように思われます。

 以下、お金の問題と周囲の理解から私の考えを述べます。


お金の問題

 たとえ才能があったとして、それが花開くとは限りませんし、仮に花開いたところでお金になるとは限りません。実際、主人公が自らの才能を発現させ、稼げるようになったのは物語の終盤も終盤(年齢的には20代後半?)で、そこに至るまでには家族が離散し、母はどんどんみすぼらしくなっていきました。本作では、主人公はが才能を正しい向きに伸ばせていたにも関わらず、です。また、物語の中盤では、主人公のもとに転がり込んだ友人の子どもに才能の片鱗が見られた時、主人公は大切な魚を売り払ってお金を作りました。

 才能だけでは生活できません。才能をしっかり発現させ、見出されてはじめて才能です。本作は映画ですのでうまくいきましたけど、現実世界に当てはめたとき、主人公の母のように、すべてを投げうってでも子どもの成功を信じることができるでしょうか。私にはできるかわかりません。まだ子どもを授かっていないからかもしれませんけど。


周囲の理解

 本作では、小学校のやんちゃ坊主も、高校のヤンキーも、職場の同僚もみんなが主人公の才能(個性)を理解し、受け入れていました。しかし、現実世界で考えてみると、あの主人公は、学校ならいじめを受けていてもおかしくない。いじめまではいかずとも、白い目で見られたり、後ろ指をさされたりしていたかもしれない。そして、それによって知的好奇心の炎を消されたかもしれない。そうなると、加害者は自覚なしにその人の才能(人生)を潰したことになります。というか、実際はそのケースのほうが多いでしょう。

 そもそも、ストーリー序盤で主人公が怪しいおじさん(さかなクン本人)の家へ行くことを母が許可したこと自体、現実離れしています。あれは父の反応のほうが正しいと思います。その場合、主人公が「おさかな博士になる」という夢を抱かなかった可能性すらあります。

 人の才能を信じぬくというのも非常にハードルが高いと思います。



誰かの才能に気づいたら…

 では、誰かの才能に気づいたらどうするべきでしょうか。私なりに考えた結果、一緒にやってみる、あるいは、一緒にやってくれる人をあてがうというのが妥協点ではないかと結論づきました。

 本作でも、魚に熱中した主人公にあわせ、家族たちは嫌いだった魚を食べました。また、前述した怪しいおじさん(さかなクン本人)も、主人公と一緒に水槽の見物、魚の「絵」のスケッチ、知識の交換をしました。

 最初に述べたとおり、才能の源が本人のなかにある「知的好奇心」であるなら、周りの人ができる手助けは、その炎を消さないようにさりげなく支えるくらいしかないのではないかと思います。気づかず踏み消してしまわぬように…。

 裏を返すと、私たちが自分の才能に気付こうとするなら、親しい人の声に耳を傾けるのがいいかもしれません。自分ではわかっていなかったような「技術」とその根源にある「知的好奇心」に気付けるかも…?


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