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涼宮ハルヒの憤慨 再認識 長門有希の存在証明を読み解く

はじめまして。Kukoc(クーコッチ)と申します。

今回から涼宮ハルヒシリーズを読む中で気づいた新たな発見や自分なりの解釈をnoteに記していこうと思います。ハルヒシリーズを読んでみたがよくわからないといった方に新たな気付きをもたらすことができたら幸いです。

記事の対象にしているのは、涼宮ハルヒシリーズ原作小説、アニメ涼宮ハルヒの憂鬱、劇場版涼宮ハルヒの消失です。基本的には谷川流先生が監修されたもののみを対象とし、小説からの引用は角川文庫版から行っています。(巻としての退屈と短編『退屈』の区別のため、短編タイトルは『』で囲って表記します。退屈と記述する場合はシリーズ三巻の涼宮ハルヒの退屈について、『退屈』と記述する場合は退屈内の野球短編『涼宮ハルヒの退屈』について言及しています。)

また本記事はあくまで涼宮ハルヒが大好きな一個人の感想、解釈です。よろしくお願い致します。


さて、初回である今回はタイトルにある通り、涼宮ハルヒシリーズ8巻涼宮ハルヒの憤慨についての記事になります。
なお今回の考察が対象にしているのは、涼宮ハルヒシリーズ原作小説、アニメ涼宮ハルヒの憂鬱、劇場版涼宮ハルヒの消失です。基本的には谷川流先生が監修されたもののみを対象とし、小説からの引用は角川文庫版(二〇一九年)から行っています(巻としての退屈と短編『退屈』の区別のため、短編タイトルは二重鍵括弧で囲って表記します。「退屈」と鍵括弧で表記する場合はシリーズ三巻の涼宮ハルヒの退屈について、『退屈』と記述する場合は退屈内の短編『涼宮ハルヒの退屈』について言及しています)。

「憤慨」の特異性 長門有希と短編


 「涼宮ハルヒの憤慨」は、『編集長★一直線!』と『ワンダリング・シャドウ』の二本の短編からなる一冊です。それぞれのあらすじを書くと、文芸部存続のためにSOS団が機関誌発行をする話とクラスメイトの幽霊騒動を解決する話になります。一見すると「退屈」や「暴走」、「動揺」と同じく普通の短編集に思えますが、ある一点において「憤慨」はハルヒシリーズの中で特殊な巻となっています。この点については後述します。
 「憤慨」には「時間平面理論の基礎中の基礎」(憤慨P147)に関する記述や「シリコンバレーからインゴットを取り寄せるくらいなら」(憤慨P252)といった古泉の発言から、未来人とハルヒの関係性や機関の規模に関して多くの示唆を与える描写が幾つか登場します。しかし今回は情報統合思念体と長門有希に着目して、「憤慨」から涼宮ハルヒシリーズ全体に関わる考察を行っていきたいと思います。
 まず憤慨の内容を読み解く前にハルヒシリーズにおける憤慨の存在について考えていきます。私はハルヒの短編集にあたる巻には、描かれる話に一種の法則があると考えています。「憤慨」はこの法則に則らずに描かれており、それが前述の「憤慨」が特殊であると書いた理由になります。
 その法則とはハルヒでは短編集にあたる巻には、長編の前日譚もしくは後日譚となるエピソードが必ず一つは掲載されているというものです。
具体的に考えてみましょう。「退屈」の『笹の葉ラプソディ』は「消失」へつながる重大なエピソードになっており、「暴走」の『射手座の日』では「憂鬱」で登場したコンピ研との対決が描かれます。「動揺」では「溜息」での映画撮影後の文化祭と撮影した映画がそれぞれ『ライブアライブ』と『朝比奈ミクルの冒険 Episode 00 』に描かれています。また同じく「動揺」の『朝比奈みくるの憂鬱』は次作、「陰謀」への導入になっています。このようにハルヒという作品群は基本的に長編を主軸に置き、短編集巻はその長編に対する補完や導入の役割を持っている話が描かれます(この法則は私がハルヒを読む中で考えたものであって、谷川先生や公式によって明言された設定ではありません。ハルヒの短編は長編に絡んで描かれる傾向にある程度の認識で考えています。また最新作「直観」も短編集となっていますが今後の展開がわかるまでは、本記事では取り扱いません)。
短編ではありませんが、「憤慨」の一作前にあたる「陰謀」には今後の展開を匂わせる描写が多く、長編となる「分裂」「驚愕」への導入を強く感じさせるものになっています。しかし「憤慨」収録の『編集長★一直線!』と『ワンダリング・シャドウ』は双方とも他の巻の長編に干渉しない独立した短編になっています。またSOS団外の人間による指令や依頼によって物語が始まる、つまりハルヒが能動的に行動を起こすことがないエピソードのみで構成されている巻でもあります。ハルヒシリーズの長編に関与しない短編は、ハルヒが主導して行動を起こすことが多いです。『退屈』の野球大会参加、『エンドレスエイト』のループなどがその例です。つまり「憤慨」は物語本筋に(現時点では)直接作用することがないにもかかわらず、ハルヒが傍観者の立ち位置にいる作品になっているのです(ハルヒを中心にして物語が展開しない短編にはある共通点があります。これについては後述します)。
 ここまでで「憤慨」という作品がハルヒシリーズの中でもある種異質な巻であることがわかると思います。では「憤慨」が、これまでの涼宮ハルヒシリーズの傾向から外れてまで描いたものとは一体何だったのでしょうか。
 ここで「憤慨」の内容を振り返りましょう。元はといえば古泉の策略ではありますが文芸部存続を目的とした機関誌作り。原因が情報生命素子であった幽霊騒動。もうお分かりですね。
 唯一の文芸部員にして「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」(憂鬱P114)。
 長門有希です。
 ここからは長門の執筆した幻想ホラー小説『無題』の「幽霊」と情報統合思念体の関係そして長門有希について考えていきます。
 憤慨の考察に入る前に、ここでもう一度ハルヒシリーズの短編についてまとめてみましょう。ハルヒの短編は『涼宮ハルヒの退屈』『笹の葉ラプソディ』『ミステリックサイン』『孤島症候群』『エンドレスエイト』『射手座の日』『雪山症候群』『ライブアライブ』『朝比奈ミクルの冒険    Episode 00』『ヒトメボレLOVER』『猫はどこに行った?』『朝比奈みくるの憂鬱』『編集長★一直線!』『ワンダリング・シャドウ』の十四話です(直観、単行本未収録を除く)。これらの短編は前述の法則とハルヒのエピソードへの関わり方によって、以下の表のように分類できます。

短編の方

 
 『雪山症候群』は天蓋領域の示唆、『猫はどこに行った?』は『雪山症候群』と直接的につながるため今回は長編に関与する扱いとしました。また『孤島症候群』は内容的には古泉のミステリーショーですが、夏合宿の発起人がハルヒであることを考慮してハルヒ中心の短編ということにします。
 この表の左下、長編に関与せずかつハルヒを中心にして物語が展開しない短編に注目してみてください。何か共通点が見えてこないでしょうか。情報生命体の寄生、コンピ研とのコンピュータゲーム対決、情報統合思念体への接続能力……。自明ですね。長門です。
 これが前述したハルヒを中心にして物語が展開しない短編に存在する共通点です。これらの短編群は長門自身もしくは情報統合思念体に近しい存在たちにまつわる物語を描いています。つまりハルヒシリーズではハルヒを中心としたSOS団メンバーによる非日常と並行する形で、長門の物語がスピンオフのように展開されているのです。
 そしてこの短編群が決して偶然によって長門絡みのエピソードのみで構成されているわけではありません。これについての言及が「憤慨」で古泉によって行われます。「…僕たちのところに来る依頼は長門さん絡みのものが多いと思いませんか?」(憤慨P268)このセリフでこの短編群が長門を描くために用意された、言うならば意図されたものであることが決定的になりました。
 共通することを意図して描かれた作品の根底には共通の主題があります。この短編群によって継続して描かれる主題は二点あります。
 一つが長門の心理的成長です。傍観者としてハルヒの観察のみを目的とし、おおよそ感情と呼べるものがなかった長門が、SOS団の活動の中で少しずつ「人間」らしくなっていく過程が描かれます。この点については詳しい説明は不要だと思うので、省きます。
 重大なのは二点目です。実はこの心理的成長を描く裏側で、短編群の中で作品世界観の根幹に繋がる、とある大きなものについての言及が進められています。
 地球外生命体と地球の有機生命体についてです。
『ミステリックサイン』のコンピ研部長氏の脳組織を利用した情報生命体。『射手座の日』の長門(=情報統合思念体)と現代のコンピュータ技術。『ヒトメボレLOVER』の情報統合思念体にアクセスできる超感覚能力。そして、「憤慨」。
 これらの短編には必ず、地球の有機生命体と宇宙の情報生命体のあらゆる対比が描かれます。そしてこれらの対比を読み解くことが長門の小説『無題』とハルヒ世界の『幽霊』を解釈していく中で重要なエッセンスとなっているのです。
 
 それではいよいよ「憤慨」本編についての考察に入ります。
 上述のいくつかの点から「憤慨」を読み解く上でのキーパーソン、キーワードが「長門有希」「幽霊」「情報生命体と有機生命体」であることがお分かりいただけたと思います。
 まず「長門有希」と「憤慨」について考えましょう。
 私は「憤慨」という作品は長門を主軸に置いた唯一の巻であると考えています。
 この意見を聞いて多くの方はこう思ったはずです。「消失は?」と。確かに「消失」は長門による世界の再構築が物語の主軸になっています。劇場版でもキービジュアルに長門が多く登場したり、主題歌を長門が担当したりと長門が実質的な主人公であると考えるのは自然に思えます。
ですが「消失」を独立した一つの物語としてではなく、ハルヒシリーズの中でどのような役割を果たしているかという観点で考えてみてください。あくまで消失したのは長門ではなく、ハルヒなのです。
 「俺はハルヒに会いたかった。」(消失P98)これが「消失」のすべてを表す一文です。「消失」はキョンの選択を描いた物語でありその主題は、キョンが選択したのは、あの『ハルヒ』がいる世界か、それ以外の世界かというものなのです。
 したがって「消失」における長門はあくまで『ハルヒ』のいない世界の象徴として存在しているだけなのです。(劇場版消失では小説版に比べ、長門の存在にかなりの重きを置いて物語が再構築されているため、この考察が当てはまらない点が幾つかあります。今回は「憤慨」の考察ということで小説版ベースのストーリー話を進めていきます)
 それに対して「憤慨」では、長門の存在を強調する表現が多く、実際長門にまつわる物語が描かれます。『編集長』は、ハルヒの退屈しのぎのためとはいえ、初めから文芸部存続を目的とした原稿執筆とともに、長門の小説や喜緑さんと長門の邂逅が描かれます。『ワンダリング・シャドウ』は情報生命素子を原因とした幽霊騒動を描きます。内容面だけでなくスニーカー版の表紙が長門であることも強調のひとつです(「憂鬱」「溜息」「退屈」と「動揺」「陰謀」「憤慨」の表紙はSOS団三人娘のローテーションとなっていますが、当然本文内容に即した人物が表紙に選ばれます)。そして何より「憤慨」の終盤、P268からの古泉との会話を含めたキョンの発言がこのことを決定づけています。このシーンではいままでハルヒシリーズで明言を避けられてきたあることを初めて示唆します。
 それは「長門はいつからどのようにしてそこにいたのか」についてです。長門の存在はハルヒの監視を目的として情報統合思念体が送り込んできた「能動的」(憤慨P269)なものです。ハルヒには願望を実現する能力があり、非日常的な数々の存在は、ハルヒが望んだから存在している。しかしこの論理が確実でないことは初期の段階ですでに言及されています。それが「涼宮ハルヒは創造主ではない。(略)…涼宮ハルヒの役割は、それらを自覚なしに発見すること」(溜息P239)という未来人派閥の主張です。この主張と古泉(機関)の主張である「彼女には願望を実現する能力がある。」(憂鬱P223)はキョンが言うように正反対の意見です。
 ですがこの二つの説はともに『世界は観測されることで確定する』という大前提の下で構築されています。未来人派閥の意見である、『ハルヒの能力は元々そこにあった非現実的な存在を観測できる能力である』はこの前提を拡張させたものですね。機関の意見ではこの前提が、非現実的な存在がハルヒによって認識されることがなければいいという考えに表れています。「溜息」のフィクションオチはこれが踏襲されているものですね。そしてこの原則をもとに長門について考えたとき上記の「長門はいつからどのようにしてそこにいたのか」には大いなる矛盾が秘められていることがわかります。
 それは三年前の七夕でキョンが長門を訪ねたことによって、長門の存在が確定された可能性があるというものです。これは『無題』を読み解く中で重大なポイントになっています。この矛盾を含めた『無題』の考察は後述しますが、つまり「憤慨」という作品は長門が「溜息」で明言を避けた、『真実』(溜息P241)について語られることになる巻ということになります。

超解釈『無題』 長門有希と幽霊


 それでは『無題』の考察に入ります。
  私は『無題』の解釈は必然的に二通りのものがあると考えます。これは「憤慨」の構造に起因するものです。「憤慨」には『編集長★一直線!』、『ワンダリング・シャドウ』という順番で短編が掲載されています。『無題』には『幽霊』をはじめとする解釈が難解なワードが登場します。実はハルヒシリーズにおいて『幽霊』という存在が登場する機会は、「憂鬱」冒頭のキョンの語りを除いて、「憤慨」まで登場しません。これは『幽霊』というモチーフが、先ほど述べた長門が明言を避けた『真実』そのものに迫るものだからです。しかし『無題』における『幽霊』像は、幻想ホラーとして文学化され、暗喩を読み解くことは不可能です。

そこに『ワンダリング・シャドウ』が登場します。『ワンダリング・シャドウ』では情報生命素子の話をやや強引に発展させ、キョンが『魂』(憤慨P249)について長門に尋ねます。ここで語られる情報によって、『無題』の初読時には思い至ることできなかった考察が浮かぶようになっているのです。
つまり初読時の『無題』は設問のみが与えられた現代文のテストのように、ある程度自由に解釈する機会が与えられているのです。そして『ワンダリング・シャドウ』を読むことで初めて設問を解くために必要な量の文章が提示される=『真実』に迫ることができるのです。
ここでようやくどうして「憤慨」が、「陰謀」「分裂」とつながる流れに割り込む形で描かれたのかがわかります。それは「陰謀」で情報統合思念体、朝比奈さんの属する未来人組織、機関所属の超能力者以外の非現実的な能力を持つ存在達の集団、いわゆる『佐々木団』の存在を示唆した状態かつ「分裂」突入前に長門の見解を示す目的があったということです。「分裂」突入前である必要は、「分裂」という作品が、世界線の分裂とハルヒをめぐる思惑の分裂というダブル・ミーニングとなっているためです。ハルヒサイドと佐々木サイド両者の対比を描くために、ハルヒサイドの宇宙人組織である情報統合思念体について描く必要があったのです。(「別口の宇宙人は長門さんにお任せしますよ。』」(憤慨P272)とあるようにそれぞれの陣営にとって思想や行動が対になる存在がいることが強調されています)
上記の描き方を踏まえて『無題』の考察を行ってきます。まず『ワンダリング・シャドウ』を未読として、あくまで文中情報とキョンの感想を主軸とした純粋な解釈を行い、次に『ワンダリング・シャドウ』の情報を整理します。そして最後に『ワンダリング・シャドウ』と憤慨までに描かれた情報を基に私なりに『無題』を解釈したものをご紹介します。
まずは『無題』を文意に忠実に解釈するために、ここではキョンの語り部分を全面的に肯定します。このことから『ワンダリング・シャドウ』未読時に『無題』を読む際の自然で素直な解釈のことを「キョン説」と呼称します。
『無題』三作の登場人物を整理します。
『無題1』は、『自分は幽霊だ、と言う少女』、『私』。
『無題2』は、『私』。
『無題3』は、『男』、『白く大きな布を被った人間』、『私』。
文中でキョンは、「『私』が長門だってのは異論がない」「『幽霊少女』と『男』と『オバケ少女』だが、幽霊とオバケは同一人物くさく、これまたなんとなくだが、男は古泉っぽくて少女は朝比奈さんのような感じがする。」(憤慨P88)と述べています。
そしてキョンの解釈前のハルヒのセリフ「幽霊とか棺桶とかって、なんの暗喩だと思う?」(憤慨P88)からもわかるように『無題』内の登場人物、物品はすべて何かしらの暗喩であり、モチーフがあることは確定的です。
この手掛かりを基に登場人物を整理すると
『私』=長門。
『幽霊少女』=『オバケ少女』=朝比奈さん。
『男』=古泉。
この暗喩をモデルとなる人物の属性と一致させると次のようになります。
『私』=長門。
『幽霊少女』=『オバケ少女』=朝比奈さん=未来人。
『男』=古泉=超能力者(機関)。
『無題1』にこの置き換えを導入すると、「幽霊と会話できる存在がいるとしたら、その存在も幽霊なのである。」という記述から、幽霊とは長門と朝比奈さんに共通するものの暗喩であることがわかります。この二人が共通して持つもの、それはやはり時間移動の能力、もっと大きな枠組みで考えるなら、超自然的な力と考えることが自然ではないでしょうか。そして最終文「そう思い、思ったことで私は幽霊ではなくなった。」から長門は幽霊ではなくなった=超自然的な力を失ったと解釈できます。長門が能力を失い一般人になる。言うまでもなく「消失」を指していると考えられます。さらに「彼女は彼女の場所へと戻ったのだろう。」は「陰謀」で朝比奈さんがキョンを連れて過去に戻ることで世界の再改変を行ったことを指していると考えられます。
次に『無題2』へと移ります。「多くの私がいる。集合の中に私もいた。」は長門の属する集合つまり長門が情報統合思念体の作った一端末であることの表現でしょう。「見るだけの行為、それだけが私に許された機能だ。」は「涼宮ハルヒを観察して、入手した情報を統合思念体に報告すること」(憂鬱P114)のことでしょう。「しかし、やがて私は意味を見つけた。」「私は出会い、それぞれと交わった。私にその機能はないが、そうしてもよいかもしれないことだった。」は推測を行う必要があります。
『無題2』を読了したキョンは直後に「あの去年の一二月のこと。」(憤慨P85)を考えています。やはり「意味を見つけた」とは「消失」内での出来事のことでしょう。意味を見つけるに同義なセリフが「消失」でのキョンの発言にあります。それは「時がたったらそいつを持つようになるのがパターンなんだ。」(消失P201)「—それはな長門。感情ってヤツなんだよ。」(消失P202)です。「消失」ではこのセリフで長門は感情を持ってしまったことで世界改変を引き起こしたことが示されます。このことから『無題2』はSOS団での活動を通してヒューマノイド・インターフェイスである長門に感情が芽生えたことの表現であると思われます。
最後に『無題3』。『無題』は3が最も難解です。まずは暗喩を置き換えて展開を考えましょう。
暗い部屋の真ん中にある棺桶に古泉が座っています。そこに朝比奈さんが遅れてやってきます。長門は発表会で何を発表するのか思い出せません。朝比奈さんは舞っています。長門の居場所は棺桶の中でした。しかし長門には発表会に参加する資格がなく、古泉が立ち退かないと黒い棺桶に入れません。
難しいですね。『無題3』はやはり推測によるところが多くなってしまいます。
『無題3』を読み取るきっかけとなるポイントは朝比奈さんです。本文中でオバケ少女ははっきりと人間であると記載されています。よってこの少女は人間でありながらオバケの仮装をしていると解釈できます。『無題1』からオバケ(=幽霊)は超自然的な力であるとわかります。つまり少女は人間であるが超自然的な力を持っている=未来から来ただけで普遍的な人間である朝比奈さんという解釈になるわけです。そしてその点長門はヒューマノイド・インターフェイスであるため人間ですらないということを婉曲的に表現しています。
次のポイントは朝比奈さんが舞っていることです。憤慨には一瞬だけ朝比奈さんが踊っている描写が登場します。それは『編集長』の終盤「淡々と見守る長門の前で先勝の踊りを朝比奈さんとともに踊った。」(憤慨P148)です。『無題3』における舞がこの踊りとするならば、『無題3』は『編集長』での原稿執筆自体を描いていることになります。キョン説では若干強引ではありますがこの考えを基に解釈していきます。
『発表会』というのは会誌発行のことでしょう。発表する内容が思い出せないということは、書く内容が思い出せないということになります。『無題3』に入る前にキョンが、「消失」での長門ならば「小説を書いていたのかもしれない」(憤慨P85)と述べています。つまり長門は原稿執筆で「消失」世界でのことを書こうとしていたのではないでしょうか。「消失」ではキョンの尽力によって世界が再改変され、世界が元に戻ったことで長門はまた宇宙人に戻りました。そのため「消失」世界の長門ではできていた可能性のある原稿執筆が、今はできなくなっているということです。
では黒い棺桶は何の暗喩でしょうか。本文中では棺桶は戻るべき場所と表記されています。棺桶とは死者が眠る場所であって、一般的に幽霊(=超自然的な力を持った存在)とともに連想されやすいものです。よって長門が帰るべき場所で、帰属を古泉が邪魔する場所となると、それはやはり情報統合思念体のことでしょう。古泉の邪魔とは『雪山』の「僕は一度だけ『機関』を裏切ってあなたに味方します」(暴走P307)のことだと考えられます。
まとめるなら『無題3』は発表会(=機関誌発行つまり普遍的な高校生活)に参加するには消失のときの長門(=普通の人間)にならなければならない、しかしそれでは情報統合思念体への帰属という目的は果たされないということを表しているということでしょう。
キョン説における『無題』の解釈を整理しましょう。
『無題1』では、「消失」時、情報統合思念体としての目的を忘れていた長門が、朝比奈さんの力(キョンを過去に連れていくこと)によって目的を思い出す(=世界が元通りになる)ことを示していると考えられます。
『無題2』では、長門がSOS団の活動を通して感情が芽生えたことを示しています。
『無題3』では、長門が普遍的な高校生活に参加するためには、普通の人間にならなければならない、しかしそれでは「涼宮ハルヒを観察して、入手した情報を統合思念体に報告すること」(憂鬱P114)が完遂できないということを示しています。
以上が文意をできる限り素直に読み解いたキョン説です。比較的平易な解釈ではありますが、強引さが否めません。これは私自身がハルヒシリーズを完璧に読み取れていないせいでもありますが、前述のように『無題』までのハルヒシリーズには『無題』を読み解くための情報量がふそくしているからです。『無題』は初読では長門の謎めいた印象を強調し、その印象が消える前に『ワンダリング・シャドウ』で解釈のヒントをあたえることで、「憤慨」を読んでいる中では、常に長門のことを想起させるように設計されているのです。
それでは、『ワンダリング・シャドウ』の長門のセリフから『幽霊』について考察していきましょう。
『ワンダリング・シャドウ』を読み解くポイントは「情報生命体と有機生命体」です。ハルヒシリーズは意識的、無意識的を問わず読者にある地点ではまだ深く考えさせることなく問題提起のみを行うという手法がよく用いられます(キョンは変な女が好きという伏線など)。この手法を用いることができるのは、ハルヒシリーズが一貫してキョンの一人称による進行で展開しているからです。ハルヒシリーズを解釈する上で最も理解が難しい場所が、キョンの述べたことをどこまで重要視するかになります。これは一般的に「信頼できない語り手」と呼ばれる問題で、叙述トリックでよく用いられるテクニックです。(谷川先生は最新刊直観でこの叙述トリックを用いて短編を書いています。未読の方はぜひ読みましょう)
つまり文中でキョンの出した解答が正答であるわけではないということです。これが『無題』キョン説の冒頭に述べたキョンの語り部分を全面的に肯定するにつながるわけです。実際にハルヒ作中では重大なことをキョンが着目しなかったために、あまり大事のように扱われないという事例があります。ハルヒではキョンの視点を操作するだけでそこが重要ではないように仕組み、「読者にバレバレな伏線」を少なくしているのです。これの代表例がキョンの中学時代の友人?として描かれ続けた「佐々木」です。「憂鬱」から一貫して佐々木の存在を仄めかしながら、キョンがあまりその話に深入りしないため、分裂で初邂逅した際に「憂鬱で言ってたやつだ!」と内容から伏線を思い出すという、一般的には難しい構図を容易に描いてしまうのです。この点から谷川先生の小説が超緻密に計算され尽くして書かれているということがわかると思います。
話が逸れました。つまり『ワンダリング・シャドウ』にもキョンの感想や意見が述べられていますが、その点をどれほど信頼するかで作品の見方が大きく変わってくるということです。
ここで、本記事では私なりの解釈の線引きとして「キョンの長門に関する記述はある程度信頼できる。」を基にしてきたいと思います。この理由としてキョンがモノローグで語る情報が信頼性を欠く場合は、ハルヒを評しているときが多いというものがあるからです(照れ隠しだと思います)。キョンは朝比奈さんや長門にはかなりストレートに好意や印象を表現します。ではここからはキョンの考察をある程度信用し、長門の発言は百パーセント純粋な事実という扱いにして『ワンダリング・シャドウ』を読んでいきます。
長門に関する短編の情報をまとめると以下の図のようになります。

時系列

 ここで注目するべきは、有機生命体である人類と統合思念体をはじめとする情報生命体には思考回路やその情報処理能力に雲泥の差があるという点 と、消失前後で長門の心理に大きく成長が見られるという点です。
長門の心理的成長は『無題』キョン説で扱いました。「消失」前ではあくまでキョン視点からの長門の観察や心情の想像に過ぎませんが、「消失」後は長門がキョンに冗談を言ったり、恋愛小説を貸したりしています。「憤慨」にも長門が執筆中の画面をキョンに見せたがらないシーンがありますね。こういった描写は、「憤慨」にこの二面性があることの強調です。つまり初読時の『無題』は図右側の心理面について考えさせるために用意されていたのです。
では『ワンダリング・シャドウ』を読んだ後の『無題』はなにを示唆するのでしょう。
簡単ですね。


「情報生命体と有機生命体」です。
『ワンダリング・シャドウ』で明かされる情報は大きく分けて二つあります。幽霊=霊魂=魂について。もうひとつは情報生命体についてです。
文中の表記から幽霊=霊魂=魂であることは決定的です。私の手元の辞書、三省堂ポケット国語辞典においても「魂 体に宿る生命のもと。別 霊」とあることから作中に限らず普遍的事実であると確定します。
以下に『ワンダリング・シャドウ』より魂に関する描写を抜粋します。
「取り憑いていたほうの情報生命素子が残り地上をフラついていた(中略)まさに幽霊じゃないか。」(憤慨P249)
「(前略)考える頭があって、そこには意識ってものが入っているはずなんだ。」(憤慨P249)
「魂を抜かれたように力なくぼんやりしている。」(憤慨P260)
P249の記載から魂とは精神や意識のことであるとわかります。よって以下の文も魂に関する記述だとわかります。
「いつの間にか体内に組み込まれてしまった精神共生体が(中略)今でも連綿に受け継がれているんだとしたら、(後略)」(憤慨P276)
上記の記述たちをまとめると、生命には肉体となる物体と思考や意識のもとになる精神、魂というものが共生することで成り立っているということになります。情報生命素子の乗り移ったルソーとマイクに魂が抜かれたという表現が用いられている理由は、彼らが生来持っていた精神が、情報生命素子のメモリの増大化に使われることで消えかかっている(=魂が抜けている)という意味でしょう。
しかし私は最後の精神共生説は正しくないと思っています。二種の有機生命体が統合し進化することを生物学ではシンビオジェネシスといいます。代表例はキョンの言うようにミトコンドリアなどの細胞小器官の細胞内共生説です。確かにキョンの精神共生説は人類のみが高度な知性を獲得した理由として適切だと考えられます。ですがこの意見と矛盾した説明が「憂鬱」で長門から行われます。
それが「有機生命体に知性が発現することなんてありえない」(憂鬱P115)「人類は不完全な有機生命体として出発しながら急速な自立進化を遂げていった。」「高次な知性を持つまでに進化した例は地球人類が唯一であった。」(憂鬱P116)です。
この文から地球人類は有機生命体として進化し、知性というものを獲得した唯一の生命であることがわかります。「有機生命体に意識が生ずるのはありふれた現象だった」(憂鬱P116)は、「憤慨」の珪素構造生命体共生型情報生命素子のような存在のことを指していると思われます。よって人類は純粋な進化によって知性を獲得したのではないでしょうか。
『ワンダリング・シャドウ』の長門の発言とキョンの考察をまとめると、『ミステリックサイン』の「情報生命体の亜種」、『ワンダリング・シャドウ』の「情報生命素子」のような、存在に「情報集積体」や「物質的な構造を持つネットワーク回路」を必要とする情報のみで生存する生命が『幽霊』の正体なのだといえます。
以上のことから長門のようなTFEI端末は、肉体を持ち知性を持ってはいますが、人類のような有機生命体と異なり、その肉体も知性も情報統合思念体につくられた、『幽霊』なのです。

いよいよ最後の考察、『無題』の読解に移りましょう。
『ワンダリング・シャドウ』の考察から、幽霊とは長門のような情報思念体によって造られた存在のことを指しています。このことから登場人物を整理すると、
『私』=長門。
『幽霊少女』=ヒューマノイド・インターフェイス。
『オバケ少女(人間)』=?
『男』=?
となります。
『私』が長門であるのはキョンの言うように異論がありません。『幽霊少女』が他のインターフェイスであるということもある程度予測できます。しかし『幽霊少女』=『オバケ少女』は成り立たないことがわかります。なぜなら『オバケ少女』は明確に人間であると明言されているためです。この時点ではまだ『オバケ少女』と『男』が何の暗喩なのか読み取ることができません。
それではキョン説の考察と同じように、『無題』を順を追って考えましょう。
『無題1』は幽霊の話になっています。これを読み解くには『幽霊少女』が誰を暗喩しているのかを明らかにしなくてはいけません。前述のように「自分は幽霊だ」と言っているため、彼女は情報生命体と近しい存在であることがわかります。「彼女の足取りは軽く、まるで生きているように見えた。」生きているということは、魂のみの存在である幽霊とは真逆の存在です。この少女は情報生命体でありながら、有機生命体、人間のように振舞うことができる存在であることがわかります。「彼女は消えて、私は残された。彼女は彼女の場所へと戻ったのだろう。」彼女はすでに消えてしまった存在ということになります。つまり彼女はヒューマノイド・インターフェイスでありながら人類に似た振る舞いができる、すでに消えていなくなってしまった存在ということになります。もうお分かりですね。
朝倉涼子です。
長門と同じく、情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイス。長門の影役。
長門を語る「憤慨」で、朝倉が登場しないのは不自然だったのです。
朝倉が消滅する瞬間は、「憂鬱」と「消失」に登場します。『無題1』の『幽霊少女』は『私』に好意的であるニュアンスが伝わるのでこの朝倉は「消失」の朝倉ということでいいでしょう。
では空から落ちてきた「奇蹟」とはなんでしょう。普通に考えれば雪のことを指していると思いますが、「消失」で雪は降っていません。劇場版の屋上の描写は劇場版オリジナルの演出です。
ここで私のとある新説を紹介します。それは『無題』の奇蹟とは星のことを指していたのではないかというものです。
 順を追って説明しましょう。まず空から落ちる、白い小さな水の結晶は彗星のことです。彗星は小さな水を核としてできていることが知られています。それが大気圏突入の熱で燃え尽きることで白く輝くんですね。つまり『無題』の記述を彗星ととらえることが可能なわけです。
 この説の良い点は、彗星というシンボルが、宇宙の情報生命体に造られハルヒ観察のために地球に送り込まれた長門と一致する点です。
しかし「これを私の名前としよう。」という部分に未だ謎が残ります。そこで長門の「有希」という漢字に着目して考えます。
「希」この言葉は非常にまれという意味を持つ字です。これだけで彗星は非常にまれな現象だからQ.E.D証明完了。としてしまいたくなりますがもう少し深く考えます。
実は「希」という字はギリシャのことも指します。ギリシャの漢字表記、希臘の一文字を取っているものです。ギリシャといえばかの有名なギリシャ神話があります。ギリシャ神話、星。この共通点は星座です。星座はギリシャ神話を基に星々をつないだものです。七夕も、星に織姫と彦星の物語を作り願い事をするものですよね。私は有希という名前で長門に星というモチーフを匂わせたかったのではないかなと考えています。宇宙人である長門には星に近しい印象を与える表現が用いられるのではないかとも考えられます。それでも名前に関しては強引すぎますね。このあたりで終わります。
話を戻すとつまり、『幽霊少女』が消えて「奇蹟」が降ったことで『私』は「幽霊」ではなくなったのです。
まとめると、『無題1』は「消失」時のことを描いていて、影役朝倉の消滅で「消失」世界は元の世界に戻り、「ただの女の子」からヒューマノイド・インターフェイスに戻った長門は、実はすでに『幽霊』ではなくなっていた=情報統合思念体の域を超えて自律進化を遂げようとしていたということではないでしょうか。
次に『無題2』です。『無題1』で考察したように、長門が有機生命体としての自律進化を遂げるには「消失」の事件を引き起こし、それを修正することが必要でした。しかしそのためには、『笹の葉』でキョンを朝比奈さんの手によって三年前に送り込み、ハルヒを北高へと向かわせるようにしなければいけません。つまりハルヒという作品はキョンが過去に向かうことが物語の起点になっている可能性があるのです。こういったパラドックスは数多くの作品で描かれていますが、ハルヒではある考え方でこれを解消しています。それが「既定事項」です。「既定事項」とは、時間は平面的であってそこに連続性はなく、どのような行動を過去で起こしたとしても、、未来は「既定」されているというものです。つまり過程を問わずに既定行動をとった瞬間に未来が確定されるのです。しかしここで浮かび上がるのが未来の行動によって過去の行動が既定される前述の「それは三年前の七夕でキョンが長門を訪ねたことによって、長門の存在が確定された可能性がある。」という矛盾です。
要するにこれは、三年前にキョンと長門が出会っていたという既定は、三年後つまり高一の時に長門と出会っているという既定がなければ確定されないということです。しかし長門とキョンが出会う既定は、キョンがハルヒと北高で出会うことでしか確定されず、矛盾が生じるというものです。
これが『無題2』にある「矛盾」だと考えられます。「光と闇」という比喩はこの長門の短編群が何を対比させてきたのかを考えれば容易にわかります。「情報生命体と有機生命体」ですね。
これで『無題2』がなにを表現したかったのかおおよそわかってきたような気がします。つまり長門は、数々の矛盾の中で生まれた魂だけの存在でした。そんな長門がSOS団の活動を通して生命に触れる中である一つの「奇蹟」へと到達します。「物質と物質は引き付けあう。」魂だけの存在である長門は当然肉体を欲します。この行為は情報統合思念体という概念的存在から物質的な存在へと生命の段階を上げること=自律進化を遂げたことに変わりありません。長門は消失世界を通して情報統合思念体であることをやめるのを引き換えに肉体を得たのです。ハルヒの能力が不可思議を偶然的に観察することができるものならば、「消失」世界でも「ハルヒたち」の見えないところで情報統合思念体は存在しています。「消失」後の長門は見違えるほど、感情表現をするようになりますよね。つまり長門は「消失」事件を起こして元ヒューマノイド・インターフェイス、現在人間の状態を一時的に作る必要があったのです。これを成し遂げることが情報統合思念体が自律進化を遂げるために必要な過程だったのです。
最後に『無題3』を考察します。まずは「黒い棺桶」について考えましょう。棺桶とは当然死者が眠る場所です。死者とはどのような存在でしょうか。死ぬということは、当然その前に生きている必要があります。棺桶に眠るのは魂の消えた肉体のみです。魂だけの存在である情報生命体は、有機生命体の持つ肉体をもたず棺桶に居場所はありません。棺桶とは有機生命体が存在することができる場所ということになります。
しかしこれだけの情報ではまだこの棺桶がどういった存在であるか掴み切れません。そこで「劇場版涼宮ハルヒの消失」主題歌で谷川先生が歌詞原案を担当した「優しい忘却」を解釈の一助としましょう。「優しい忘却」には以下のような歌詞が登場します。
「消える世界にもわたしの場所がある」
「消失」において消える世界とは、長門が改変した「ハルヒのいない世界」のことでしょう。長門の場所は再改変した世界ではなく、「消失」世界にあるということになります。「消失」世界にある場所、これが直接「消失」世界を指しているとは考えづらいです。なぜなら長門は、再改変をした世界で冗談を言うようになるなど確実に成長をしているからです。つまり棺桶とは改変後の世界にはあったが、再改変後には存在しない場所ということになります。私はこれが、特殊な能力を持たないSOS団メンバーで構成された文芸部室であると考えています。
古泉の言葉を借りるなら「世界は三年前から始まった」。三年前には情報統合思念体も未来人も超能力者もいない世界があったのです。いつかハルヒの能力が失われ、すべての非日常的存在が消えてなくなる。世界は三年前のような日常に戻っていく。これが棺桶に戻るということなのです。
では「発表会」『男』『オバケ少女』とは何でしょうか。実は本文中には発表会を行うことと棺桶に入ることの関係性は示されていません。つまり発表会は棺桶に入るための必要条件でも十分条件でもありません。前述した通り、棺桶に入るということは、長門が普通の少女になるということです。長門が普通の少女に戻る過程で自然と達成されていることが「発表会」となります。そして今の長門が達成できていないものです。   私はやはりアレだと思います。
「—それはな長門。感情ってヤツなんだよ。」(消失P202)
長門が感情を獲得すること、それが「発表をする」ことではないでしょうか。
これを受け入れることで中身が人間である『オバケ少女』の暗喩がわかります。長門と同じように超自然的な能力をもっていますが、根本的に大きく異なる存在たち。
そう、未来人と超能力者そしてハルヒです。
彼らは非日常的な存在ではありますが、長門とは異なり一般的な「人間」です。そのため感情を持ち自由に舞うことができます。また超自然的な不特定多数の存在であることを暗喩させるために、黒い瞳しか窺い知ることができないのです。つまり『オバケ少女』とは長門とは似ているようで異なった境遇を持つ、超常能力持ちの存在たちの暗喩なのです。
では最後に『男』。これは消去法的に考えましょう。
超自然的な能力を持たず、普通の世界の暗喩である「棺桶」に腰掛ける男。

キョンで間違いないでしょう。

では『男』が棺桶に腰掛けている理由を考えましょう。『男』は長門が棺桶に入るのを邪魔するのではなく、『男』が立ち上がることでしか長門は棺桶に戻れないのです。キョンが立ち上がること。これも一つでしょう。
「お前の親玉に言ってくれ。お前が消えるなり居なくなるなりしたら、いいか?俺は暴れるぞ。何としてでもお前を取り戻しに行く。俺には何の能もないが、ハルヒをたきつけることくらいはできるんだ」(消失P235)

長門が普通の少女になるためには、キョンがハルヒに超自然的な存在を認識させる必要があるのです。
『世界は観測されることで確定する。』
もしハルヒに長門の存在を認識させずに、ハルヒの能力が失われれば長門の存在が確定されることがなく消滅してしまう。なぜなら長門はハルヒの能力なしでは、肉体を持てない『幽霊』そのものだからです。ハルヒによって「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」としてではなく、「ただの人間」として長門有希自体がハルヒに認識されなければ、長門の存在は確定しないのです。
これが『無題』を通して長門が伝えたかった長門にとっての『真実』だと考えられるのです。つまり『無題』は小説というフィルターを通して、長門が自律進化を遂げるために必要な過程「自律進化の可能性」と長門なりのハルヒ世界の解釈を伝えているのです。
『無題』は有機生命体を希った少女の物語なのです。
以上が私の『無題』解釈です。
 
あとがきのようなもの


私がハルヒから受けた影響は筆舌に尽くしきれないほどに大きなものです。文学に親しみながら、SFに惹かれ、理学の道を目指すようになったのも今にして思えばハルヒの影響だったように思います。
細やかな自慢ですが、私は昨年超長文でハルヒの愛を語ったファンレターを谷川先生に送り付けたのですが、まさかの谷川先生からの直筆メッセージアンドサイン付き暑中見舞いをいただくという驚天動地の事態がありました。ありがとうございます。谷川流先生とハルヒが大好きです。
この考察が涼宮ハルヒシリーズを大いに盛り上げるものになってくれることを祈りつつ、それではまたっ。
 

引用文献
谷川 流「涼宮ハルヒ」シリーズ (角川文庫) (2019). 角川書店
三省堂編修所 「三省堂ポケット 国語辞典 プレミアム版」(2019)三省堂

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