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物語食卓の風景・残された妻①

 夫が行方不明になって2カ月。立花洋子は、徐々に新しいペースに慣れ始めた。当初はもちろん動揺した。近くに住む次女の香奈子を呼び出して、話を聞いてもらったりした。

 とりあえず、夕方にコロッケを食べてから、何も口にしていなかったし、香奈子もお腹を空かせているようだったので、鍋焼きうどんを食べたら少し落ち着いた。香奈子が、「お父さんの行先に、思い当たるフシはないのね。だったら、荷物を調べて手がかりがないか探さなきゃ」と言うので、散乱した衣類を一緒に片づけながら何がなくなっているかを確認した。

 春のコートと、ズボンが数着。長袖のシャツと半そで、下着はほとんど残っていなかった。カーディガンもなくなっていた。シェーバーに歯ブラシ。愛用のカメラと腕時計もなくなっていたのに、なぜか携帯電話が残っていた。「お父さんには携帯ぐらい持ってもらわないと、出かけていても連絡が取れないでしょう。それに今は公衆電話も少なくなっているし、連絡をするのに困るでしょ」と何度言っても、「電話なんて持ち歩くものじゃないし、外で電話が鳴ったらうっとおしい」と言い続けていたのに、2年ほど前に郷土史研究会のサークルに入ったら、「会の連絡先に携帯電話の番号がいるそうだ」とか言ってすぐに持っちゃったのよね。

 それでも、「通話ができればいい」と言って、頑としてスマートフォンは買わなかった。「地図もあるから、行きたいところがすぐわかる機能が便利なのよ」と香奈子が言ってくれたときも、「地図ぐらい、買えばいいし、おれはインターネットなんて使わん」と言い張っていた。それにしても、携帯を忘れるなんて。それとも、連絡が取れないようにわざと置いていったのかしら。

 いずれにしても、携帯電話に怪しい情報が残っていないか調べたけど、入っている番号は、私のと香奈子、そのほか数件だけ。それも全員男性の名前。そのうちの何人か、あるいは全部はサークルの人だと思う。もしかして、誰かと浮気?と疑ってもみたけど、少なくともそういう相手は、携帯からは読み取れなかった。「インターネットなんて使わん!」というお父さんの携帯には、LINEやフェイスブックはもちろん、ショートメールもDMしか入っていなくて、本当にメールの一つも使っていなかったことがわかったぐらいだった。それとも、スマートフォンでないと、メールとか使えないのかしら? 香奈子が言うには、最近までLINEは使えたはずで、お父さんに使ってとリクエストしていたみたいなんだけど。

 ともかく携帯には手掛かりなし。人付き合いも悪かったから、地元なのにお友達も少なかった。そういえば、郷土史研究会に誘ってくださったのは、数少ない幼なじみで、小学校から一緒だった吉永太一郎さんぐらい。吉永さんの電話番号は、携帯に残っていた。

 吉永さんは昔からアクティブな人で、うちのお父さんとは正反対。テニスもゴルフも得意で、テニスは最近まで続けていらしたみたい。さすがに「年を取ってくるとしんどい」とかで、なぜか定年過ぎてから料理も始めた。奥さんが「週に一度は料理教室で習った料理を食べさせられる」とおっしゃっていた時期もあったっけ。「変に教科書通りきっちり作るから、何だか私の料理を査定されているみたいでいやなのよね。台所に入られるのも、何だかモヤモヤするのよ」とおっしゃっていたっけ。一度、吉永さんに「食事へいらっしゃいませんか」と誘われたけどね。

 あのときは、お父さんが断ったんだっけ。「どうせ、太一っちゃんの自慢話がセットだ。講釈を聞きながら飯を食うなんて、食った気がしない。あいつのことだ、リベラルを気取って『お前も料理ぐらい覚えたほうがいいぞ』とかいうにきまってるんだ」と言っていた。

 そんな風に文句ばかり言いながら、60年ぐらいおつき合いがあるんだから驚きよね。でも、お父さんがあんまり社交的じゃないせいか、向こうのご家族と親しくつき合ったこともないのよね。近所だから奥さんとは、お互い知っているし、買い物のときとかお会いしてお話することはあるけど。そういえば向こうの奥さんとお会いしたのも、お父さんと一緒に近所の公園を散歩しているときに偶然向こうのご夫婦も散歩をしていらして、ごあいさつしたぐらいだったわ。お互いの顔がわかったんで、それからはお会いすることがあればちょっとした立ち話ぐらいはするけど、それ以上は立ち入らないし。吉永さんはお会いすると「一度、うちへも遊びにいらしてください」とお誘いくださるんだけどね。お父さんが嫌がるのよ。

 そういえば、向こうの奥さんもお顔は知っているけれど、お名前まではわからないわ。聞いたけど忘れちゃったのかしら。女同士の関係って、お互い「〇〇さんの奥さん」と呼び合っていればすんじゃうもの。香奈子の話じゃ、今どきの「ママ友」は、「〇〇ちゃんママ」と子どもの名前で呼び合うんですって。香奈子は「咲良ママ」か「萌絵ママ」ですって。どっちにしろ、自分の名前なんて何かの書類に記入するときとか、手紙を書くときぐらいしか使わない。手紙も今はあんまり書かないしね。年賀状も印刷ですんじゃうし。そのうち書き方を忘れちゃうんじゃないかしら。

 考え事をしている間に夕方になっちゃった。今夜は何を食べようかしら。お父さんがいなくなって、家事はラクになったけど、こんな風に一人で考え事をする時間はますます増えちゃった。一時期、身なりもあんまり構わなかったら、お隣の馬場さんに心配されてしまった。変な勘繰りはされたくないのよね。うまくそのときに、お父さんが旅に出たことにして切り抜けたけど。そうよね、旅に出たようなものと言えばそうかしら。いないし連絡もないし。本当にどこへ行ったのかしら。吉永さんにお聞きしてみようかと思ったこともあるけど、男の人の携帯電話に連絡するのは、怖いわ。かといって、おうちもねえ。結局一度もおうかがいしていないから、どこにおうちがあるかもわからないのよね。お父さんに届いた手紙も一通り調べたけど、吉永さんとは年賀状のやり取りはしていなかったみたいで、住所はわからない。近所なのにねえ、小学校の校区もそれなりに広いから、公園からうちとは反対方向らしいことぐらいしかわからない。

 香奈子が、「一応」と言って、携帯に入っていた人の名前と電話番号を全部メモしていったけど、どうするつもりなのかしら。

 それにしても今日の夕ご飯は何にしようかしら。1人だと、あんまり食べないし、困るのよねえ。お父さんがいなくなって一番困るのは、料理するのに困るということかしら。真友子が東京へ行って、香奈子が結婚して、少しずつ家族はへっていったけど、まさかお父さんが突然いなくなるなんて思っていなかった。ご飯を炊いても結局残るでしょう。最近は、めんどくさくなると総菜を買うこともあるけれど、何しろ駅前のコープさんやスーパーだと、誰に会って見とがめられるかわからないから、わざわざ電車に乗って2駅先の特急が停まる駅まで出かけて行って買い物するようになっちゃった。あそこはコープさんはないけれど、大きなスーパーがあるのよね。今日もじゃあ、そろそろ出かけましょうか。



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