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物語食卓の風景・東京の2人⑦

 美紀子は、元夫の佐藤樹の娘、由芽に先日会ったときのことを思い出す。あれはよく晴れた春の日だった。空気も爽やかで、何だか楽しい気分になっていく。「今日は自転車で行こう!」と思い立ち、約束した店へ向かう。

 由芽は指定したカフェに座って待っていた。緊張した面持ちで、店内をキョロキョロしている若い女の子の姿は、ドアを開けてすぐわかった。

「お待たせしました。長沢美紀子です。佐藤由芽さんですか?」

「はい!見つけてくださってありがとうございます。お父さんたら、長沢さんの写真も持っていないと言うから、どうやって見つけたらいいかわからなくて心配でした」

「大丈夫よ。私は職業柄、初対面の人と待ち合わせることも多くて、すぐ分かるわ。それに由芽さんが長いストレートヘアで白いシャツを着てくるって、事前にお知らせくださったでしょ。お父さんから携帯に入っている写真も見せていただいていたし」

「そうでした。長沢さんは茶色いバッグを持ってきて、肩までの少しウェーブがかかった髪型でしたね」

「そうそう。だから大丈夫」

 由芽はホッとした顔になった。注文したドリンクが届き、出版業界についての説明を一通りし終わった美紀子。

「まあそんなわけで、この業界はしっかり技術を身に着けて人脈を築けば会社を替えることも、フリーになることもできるから、長く続けられるわよ」

「よかったです。私はできれば仕事をずっと続けたいと思っています。母は私を妊娠して仕事を辞めていて、その後再就職しようにも苦労して、結局正社員の仕事を見つけることはできませんでした。資格も技術もない女性には、選択肢がないってよく嘆いていたので、私は専門職がいいなと思っていたんですよ。でも、教師とか医師とかには興味がないし。

 大学を選ぶときに、自分が何が好きかなと思ったら、本を読むことや文章を書くことだと気づいて。作文とか昔から好きだったんですよ。国語の成績はよかったし。本好きは、母が読み聞かせをしてくれたのがきっかけで、本はたくさん買ってもらいましたし、学校だけじゃなく、市立図書館にもよく通いました。読書が仕事に結びつくとはあんまり考えなかったんですけど、確かにこういう本とか作る仕事は好きかもしれない。でも、出版社は難関そうにも思える。とりあえず、ジャーナリズムを学ぼうと社会学部のある大学を選んで入りました。ジャーナリズムを教える先生がいることも知っていたし。文学部に入ることも考えたんですが、マスコミ業界に入るには幅広い知識が必要と思ったので、文学を掘り下げるより、社会学で実社会に対する視野を広げるほうがいいと思いました」

「すごいわねえ。今、まだ19歳でしょう?そこまで考えて大学を選ぶのね。偉いわ」

「いえいえ。就職は厳しいのが当たり前だから、今から考えておかないと。父も仕事がなかなか落ち着かなかったんでしょう? 新聞社に入って、東京に出て、カメラマンになって関西に戻って。苦労した時期もあると聞きました。でも、考えてみれば記者もカメラマンも技術職の一つで、父が転職しながらも元の会社に戻って落ち着いたのも、その技術が評価されたってことでしょう? 理系は私弱くて、化学や数学は苦手なんですが、技術職には文系もあると気づいて安心できたんです」

「ご両親をよく見てらっしゃるのね」

「そうですね。やっぱり自分の将来を考えるのに、両親は一番身近な先輩なんですよ。母も本が好きで、よく読んでいるんです」

「お母さんはどんなジャンルが好きなんですか?」

「江國香織とか、角田光代とか川上弘美とか。外国文学もよく読んでいますね。新聞も真面目に読んでいます。父の仕事と関係があるからかと思ったけれど、それだけじゃないみたいですね。テレビもニュースとかNHKスペシャルとか好きで」

「ドラマとかバラエティはあまり見ない方なの?」

「そうですね。両親はよく話をするんですが、父が報道カメラマンでしょう。社会派の会話が多くて、母もだんだんそういう社会の出来事に興味が強くなったって言っていました。『OL時代は、トレンディドラマとかもよく見たのよ』と言っていましたけど、今はあまりドラマには興味がないようです。まあテレビドラマは若い人向けのものが多いからかもしれません」

「ネットフリックスは多彩なドラマがあるわよ」

「ああ、私もそれを言ったんですが、検索の仕方がよくわからないって」

「確かに慣れないと分からないわね。でも、お母さまも報道に興味がおありになるのね」

「父から学んだことは大きい、と言っていました。そんな母の影響もあるかもしれません。父も実は仕事をしながら、社会の事象についてより深く考えるようになったそうです。特に関西に戻ってから、強くなったって。地盤沈下する地元を盛り上げるには、どうしたらいいかとか」

「なるほど。そういう両親を見て育ったあなたが、ジャーナリズムを志すのはある意味当然ね。ただ、私のジャンルはいわゆる報道とは遠いから、本当に私の話で参考になったのかしら」

「いえ、参考になりました。私は東京の会社をめざしたいと思っているので。少なくとも最初は、出版の中心地へ行きたいですし、女性の場合はどうなのかも知りたいです。父もよく、『やっぱり関西じゃなあ……』とぼやいているので、関西ではできないことが、東京ならできるのかなと思うんですよね。本当なら、東京の大学へ行ければよかったのかもしれません」

「なぜ東京の大学をめざさなかったの?」

「受けたんですが、落ちました。残念ながら」

「そうか、失礼しました」

「大学で東京へ行けなかった分、就職は東京でしたい。地方は不利ですから、早くから準備をしておかないと」

「本当に偉いわ。私はあなたの年ごろには、遊ぶことばっかり考えていたような気がする。まあバブルのピークだったこともあるんでしょうけど。ところで、ご両親は本当に仲がいいのね」

「そうですね。たぶん、父が家事に積極的だからじゃないでしょうか。友だちの家では、お父さんが家事をしないので、お母さんが文句ばっかり言っている、という話をよく聞きますから」

「え、お父さん、家事をするの?」

「掃除とか買い物とか、しますよ。たまに、週末に買い出しが家族行事になったりします。収納のボックスをショッピングモールへみんなで観に行って、ついでに衣類を買って、イタリアンレストランで食事するんです。インドカレーのこともありますけど」

「ええ!そうなの。へえ」

「父は掃除が好きなんですよね。シーズンに1回は窓を拭いてピカピカになるのが楽しいとか言って、網戸まで洗って。ついでに車もピカピカにする。まあ、掃除機をふだんかけているのは母なんですけどね。片づけをしているのも。毎日の家事はやっぱり母がしています。あ、でも食後に食器を下げたりします。それは私もやらされる。父は、自分のモノは自分で管理しないといけないと言います」

「ご両親が仲がいいというより、家族で仲がいいのね」

「はい。両親とも家族を大事に考えているし、私のこともちゃんと大切にしてくれていると思います」

「だから、あなたは、こんなにまっすぐすくすくと育ったのかもしれないわね。まあすごいわ。そういう家族もあるのね。というか、あの人、佐藤さんがそういう人になるとは」

「東京時代は違ったんですか?」

「まあね。お父さんから私のことは何と聞いているの?」

「東京時代にお世話になった人だって」

「まあそうね。そういう説明ならそういうことね」

「何か含みがありますね。父も、ちょっと態度が気になったんです。長沢さんの話をするときに、ちょっと引っ掛かりがあるような感じで。もしかして、元恋人さんですか?」

「あ、鋭い。言ってしまっていいかしら。実は元妻です」

「そうだったんですか! え、そんな方に、失礼じゃなかったですか? 私。図々しいですよね。いろいろ相談にのっていただいたりして」

「いや、いいのよ。私ももうこだわりはないから。縁がなかったということだと思っているし」

「そうですか。すみません」

「でも、お父さんが私と別れたから、お母さんと出会って、2人が一緒になったからあなたがいるわけでしょう」

「はい。私は両親が好きですし、あの両親のもとで生まれてよかったと思っています。でも、私の人生は長沢さんの犠牲のもとにあったんですね。何と言っていいのか」

「犠牲はどっちもよ。人は生きていく中で誰かを傷つけたり、傷つけられたりすることが、当たり前にあるもので、たまたま私とあなたのお父さんは結婚したけれどうまくいかなかった。でも、私は今の人生を悪くないと思っているわよ。うちには子どもはいないけど、アンナちゃんというかけがえのない猫ちゃんがいるし、友達もたくさんいるし、離婚したおかげで仕事を続けられて、面白い人生を送っていると思うわ。それに、お父さんも私と別れて幸せになれた」

「ありがとうございます」

 美紀子は、由芽と会ったときのことを反芻し、、由芽に離婚した事実を伝えた最後のあたりを、真友子に説明した。

「何かね、由芽さんから堂々と、両親のもとに生まれてよかった、と言われたときに、本当にラクになったの。自分は流産したけれど、元夫はそのおかげで新しい人生を歩むことができて別の生命を得た。人生って何がどう転ぶか分からない。一つの選択が、新しい道を切り開くわけで、マイナスの体験もプラスに変わっていくものだなと。私は何も間違っていないし、元夫も間違っていない。たまたまうまくいかなかっただけなんだと思って、そのときにやっと自分自身を許すことができたように感じたの」


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