見出し画像

物語食卓の風景・母と娘①

 香奈子はお茶を一口すすり、話し始めた。

「あのね。なんかお母さん、ヘンなのよ。ヘンっていうか。お姉ちゃんが正月に帰ってこなくなってからも、まるでそれが当たり前みたいに、最初からうちには私しか娘がいなかったみたいに普通にしているし。その頃からお姉ちゃんの話もあんまりしなくなった。

 お父さんのことも、最初は確かに動揺していたし、私が『どこか思い当たるところはないの?』『何か手がかりはないの?』と聞いたら、一生懸命考えようとしているように見えた。でも、お父さんが残していったケータイのデータを私が写すのを、何となく嫌そうにしていたし、警察に届けるのは嫌だって言い張るし。何となくそのあたりから、お父さんのことを話題にするのを避けるようになった。

 だから今回も、お父さんのことで何かとは期待していなかったの。でもね、なんかね、お母さんの人生は、もう半世紀はお父さんと一緒だった年月があって、それからお姉ちゃんを産んで育てた期間もあるでしょう。家族として一緒に過ごした時間は、お母さんにとってもかけがえのないものだったはず、と思うのよ。なのに」

「そりゃそうだろう。お義母さんが結婚してからの人生のほうが、結婚前の人生より長いんだから」

「そうよね!えーと、お姉ちゃんが私より9歳年上だから、今年47? お母さんが70歳で、結婚したのはいつだっけ? わりとすぐにお姉ちゃんが生まれたはずだから、22ぐらいかな。ほんと、人生の大半が既婚で母親ということになるよね。それをなかったことにするなんて、無理よね」

「まあ、香奈子の存在は無視していないわけだから、母親はやっている」

「屁理屈はいいの! お母さんは相変わらずおしゃべりで話は長かったけど、ずっとお隣の馬場さんの噂話とか、1人暮らしの大変さとか、でも最近大型スーパーへ行くようになって買い物が楽しくなったとか、咲良や萌絵についてとか。だんだん私も、お母さんはずっと1人暮らしできたような気になってくるの。ほんの数カ月前まで、お母さんはお父さんと一緒にいて、お父さんに対するグチとか聞かされていたのに」

「お父さんについて、前はどんな話をしていたんだ? 家事のことだっけ?」

「そうそう。お父さんが数年前に退職してから家に居る時間が長くなったのに、家のことを相変わらずやらないとか。お昼ご飯を2人分準備するのが面倒だとか、そんな話よ。でも、お父さんって、けっこう出かけること多いじゃない? サークルは忙しかったみたいだし、散歩とかも好きだったみたいだし。その割には家で3食食べるんだって。会社に勤めていたときは、お昼は用意しなくてよかったし、つき合いとかもあったから、夕食も毎回じゃなくてよくて、だから気楽だったのに、退職してからは出費を抑えるためもあって家で食べるから、めんどくさいって。あんまり家にいないのに、ご飯だけは毎食いるから、よけい面倒だって言っていた。えっと『私はエサやり器みたい』とか言ってたな。ペットとか家畜を飼っている気分だって。コミュニケーションはほとんどないのに、ご飯だけは毎食つくらされるからって」

「エサやり器! なんか、テレビでやっている家畜小屋で、溝みたいなエサ箱にバケツからだーっと飼料を流し込む光景が浮かんじゃった」

「そういうのだったらラクよね。煮込めばいいし、もしかすると買ってきたエサの袋ごと入れるのかもしれないし」

「毎回同じでいいし。いや、それは畜産業の人たちに失礼かも。ああいう食の現場の番組って結構面白いんだよな。テレビで紹介されるような農家の人たちって、すごくおいしいものを作るような人たちだろ。エサもいろいろ配合を工夫しているらしいから。最近じゃ、食品会社から出るごみをリサイクルして使っていたりするらしい」

「へえ、そうなんだ。でもそういう人たちって、いいエサをやれば、家畜の肉の味がよくなって、高く売れるからそういう工夫をするんでしょう? そういう意味じゃ、年を取ったお父さんにご飯を出すのは、そこまでやりがいないかも」

「そりゃ、お義父さんを食べちゃったら大変だもんな。売り物じゃないし。って失礼だよな……まさか、お義母さん、お義父さんを食べちゃったとか?」

「あのね、冗談も言っていいものとダメなものがあるのよ!」

と言いながら、思わず吹き出す香奈子。

「お父さんが豚の格好をして、エサ箱から食べたり、エサをお母さんにねだっている姿を想像しちゃったじゃないの」

「香奈子は想像力が豊かだな。おれはそこまで想像できないや。いや、香奈子のほうが残酷かも」

「ひどい!」と言いながらも、笑ったことで少しリラックスしたのか、香奈子の肩の力が抜ける様子が勝には見て取れた。香奈子はまたお茶をすすり、続きを話し始める。

「でも、考えてみたら、長年連れ添ったとはいえ、特別ラブラブでもない夫に毎日ご飯を出すために買い物して料理して、という生活はあんまり楽しくないかも。お父さん、料理について特に感想を言うような人じゃないし、子どもみたいに、うれしそうな顔をして食べないでしょう。それに、子どもたちは成長していく姿も見られるから、つくったものが栄養になっているんだなと思うじゃない。咲良なんて、疲れた様子だったのが元気になるとか、食べたものがエネルギーになっているのが、観ていてわかるぐらいだもの。萌絵もまだおっぱい飲んでいたときなんか、お腹いっぱいになったら表情が安らいでいくのがわかったもの。そういうわかりやすさが、お父さんが相手だとなさそう」

「そうかもしんない。おれ、ちゃんと食べさせ甲斐ある?」

「あるよ。勝は食べることに興味がすごくある人でしょう? 料理もたまにだったらつくってくれるし。食べることの番組もそんな風にして観ていたりするし。シェフが出てくるような番組も好きだもんね」

「そうなんだよ。子どもの頃にやっていた『料理の鉄人』とかめちゃ好きだったよ。あれ見て、料理人ってかっこいいって思ったんだよな。でも、学生時代に喫茶店でアルバイトをしたら、きつくてとてもプロにはなれないって思ったよ。お昼とかめちゃ忙しくて、目が回るかと思ったよ。それに、そういう仕事だと、ちゃんとした時間に飯も食えないし。大学には行ったほうがいいって言われて進学はしたけど、そのアルバイトでプロは無理って思って普通に就職したけど、それで正解。仕事にする体力も根性も俺にはなかった」

「そうか、勝は厨房で働いたこともあるんだ。それで、中華とかよく作るんだね。鍋を振るの楽しそうだもんね」

「かっこいいと言って欲しい。本当は、鍋から火が出るぐらいのことをやりたいけど、うちの台所でそれやるとよくなさそうだから」

「換気扇のフィルターが燃えるから、それはやめて。それに子どもたちがいるのに危ない」

「やらないよ。あれはプロの火力が強い厨房でやってこそ意味がある」

「そうなの?」

「うん、たぶん」

「あはは。とにかく、勝は食べたらよく何か感想を言ってくれるものね。ときどき失敗したらすかさず指摘するから、それはうっとおしいなと思うこともあるけどね。でも、次に何に気をつけたらいいかわかるから、参考になるよ」

「そうだな。香奈子の料理の腕前は上がったと思うよ。それはでも、子どもたちが食べる食べないで工夫してきたということもあると思う」

「確かに、子どもは一番厳しい批評家だわ。ていねいにつくらざるを得ない。萌絵なんて、ニンジンが固めだと、口から出しちゃうもんね」

「そうだな。そういう手応えがお義父さんにはない、というのもわかるよ。おいしいのかどうかわかんないもんな。お義母さんは、お義父さんに感想を言って欲しいとか言わなかったのかな」

「そういう相手じゃないでしょう。なんかあんまりしゃべんない人だし」

「そうかもしんないな。お義母さんはお義父さんのどういうところがよくて結婚したんだろうか」

「そうね、そういえばなれそめとかあんまり聞いたことがなかったな。恋にめざめた10代の頃に聞いてみたことがあるけど、『子どもはそういうこと、聞くもんじゃありません』って即却下! お母さんはあんまり昔のことを話してくれない人だった」

「お義父さんには聞かなかったのか?」

「やだ、思春期の娘がお父さんとそんな話なんてしないわよ!」

「そうか、そういうもんなのか」

「でもとにかく、お母さんはお父さんのために家事をするのが面倒だって前はよく言ってたの」

「じゃあ、むしろ1人暮らしになってラクになったんじゃないか?」

「それがそうでもないのよ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?