[RRR]RRR考察 4)差違の受容と全肯定

考察4個目、ラーマとビームの関係性について感情、エモーション、フィーリングの面から掘り下げてみます。
以下の一連の考察の続きです。一番大事なのがこれという気持ち。

★最強の肩車

まずはみんな大好き肩車、「Together We Rock」のシーンから。
ビームはラーマの解放闘争を知り、共に民族性を持つ戦士として認めあったために助けに来た。つまり双方の大きな共通点を得たことで一度壊れた絆が再び結ばれたシーンである。
このシーンでは、二人の関係性はいわば「両想い」。
共通点がある相手のことを好きになるのは人間の性質なので「両想い」になるのに何の疑問もない。脳みそがそういう風にできているのである。
(このあたりについて私は精神科医の樺沢紫苑先生の著書で学んだので、よかったら参照してみてほしい。以下の著書にはちょっとメンタルが停滞しているときに助けてもらった。) 

なお、つまらない注釈であるが、別にShipper的な意味で「両想い」と言いたいわけではない。性愛よりももっと根源的な感情として、自分が好ましく思う相手が自分を好ましく思ってくれる、好きという感情が共通するのは人間にとってとてつもなくうれしいことなのである。Dostiってそういうことでしょ。もちろん、性的志向やジェンダーに沿わない相手は一切好意を持たないという即物的な志向も否定しないけれど。                  

インド映画の文脈で言えば、肩車のシーンは「両想い」の「男女」であれば間違いなく一番豪華なダンスが始まっていたところだと確信している。
しかし、「両想い」でも「ラーマとビーム」「チャランとタラク」、この二人なのでアクションのほうがふさわしいという判断がなされたのだろう。
創造神S.S.ラージャマウリによって。

ただ、アクションといえど、チャランくんとタラクさんの身体能力のためかかなりダンス的に作られていると思う。
私が現状で一番まじめに見ているダンスっぽいものがフィギュアスケートなので、これで例えさせてもらうけれども、肩車パートはフィギュアスケートでいうとアイスダンスのダンスリフト的な要素が非常に多い。
ラーマが頻繁に(極めて美しい)レイバックをするのと、ビームが遠慮なくローテーショナルでぶん回してくるところから特にそう思う。ポジションチェンジのときにがっつり手をつなぐのはペアのリフトのようでもある。(タラクさんの腕力と体幹があればそのままスターリフトあげられそう。(それはもはや肩車ではない))
考えてみればチャランくんのポジションの美しさ、手振りの華やかさはリフトに乗る人向きだし、タラクさんの不動の体幹と体重移動の巧みさはリフトする人向きである。なぜ今まで肩車させなかったのか意味がわからないレベル。(そもそも共演してません、落ち着いてください)オーソドックスなインド映画のダンスとはかけ離れているけれども、もはやダンスシーンとして見ている。毎回大変楽しい。

ラーマンビーマンはデミゴッドとしての覚醒、「両想い」の延長戦であるといえる。しかし「両想い」どころでは終わらないのがRRR。

★銃の獲得 全肯定のものがたり ふたたび


2)でもやったけどまたやる。ビームが銃をもってやってくるあのシーンこそが2人の関係性の肝である。

繰り返すが、人間というものは、共通点がある相手のことを好きになる。脳がそういうふうにできている。
ところがそれでハッピーエンドで終われる例は多くない。その先の人生を生きていくにあたり、両想いになって距離が近くなった相手であるほど、近いだけにどんどん違うところが見えてくるものである。そして、同じだから好きになったのに、違うなんて詐欺だ!というすれ違いが積み重なっていく。そのために、友人が疎遠になり、夫婦が離婚するということが神代の昔から繰り返されてきた。

違うものは受け入れづらいのが当たり前なのである。これも脳がそういうふうにできているのである。

しかしビームはどうだろう。
民族性という共通点を見いだしたラーマに対し、ラーマ自身はおそらく「同じ」だから再び絆を結べたと思っているだろうに、ビームは銃に象徴される近代性という「違い」を肯定する行為をした。(頼んでもいないのに危険な武器庫から銃を持ってきてくれた。)
「違う道を歩んで」きたけれど、それでいい。あなたが歩んできたその道には大きな価値がある。つまり、差異の受容と全肯定である。
しかも自らが持たないその「差異」を今後獲得するという意思も見せている。(銃はふた山ある。ラーマの分と、ビームの分。)
これはラーマ嬉しい、死ぬほど嬉しい。

普通の人間であれば、違うところをなおして同じになった、よかったよかった、で終わるはずなのである。
それを、違いを認めてくれた上に、その違いを全肯定してもらえたのである。他者から人間として丸ごと認めてもらえる、肯定してもらえるという経験は実に稀有なものであると思う。私たちは、その奇跡を目撃している。

ラーマの気持ちになってビームを褒め称えてしまうけれども、この度量と本質に切り込む知性こそが腕力にも増してビームの武器であり魅力なのだと思う。
一方でラーマは極端で思い込みが激しい。その激しくまっとうな価値観ゆえに、持てるものは何でも捧げてしまう。その無私の献身に人は自然と惹かれるものである。
2人は違う。けれど、その違いを互いに全肯定できる関係性を手に入れたのだ。

★むすび


RRRは、無私の献身をためらわない英雄と、物事の本質を理解することに長けた英雄の友情の物語であるといえる。ここまでくると本人達に非常に近いキャラクター造形という気がするし、アテ書きだろうと思える。
「ラーマとビーム」は「チャランとタラク」でなければいけなかった物語なのだ。

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