コースの学びが深まっていくとき、どのような知覚になっていくのか?
この世界に神聖なものなどない
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくとき、どのような知覚になっていくのか?
そのことについて書いてみたいと思います。
まず、コースの思考体系が根付いていくとき、この世界のもの、そして、この世界で起きていること、そのすべてが自分とは無関係ではなく、むしろ、自分に属するものというふうに知覚するようになっていくといえます。
そう、すべてが自分の心の中で起きているのだと知覚されるようになるということです。
つまり、自分以外の誰もいない、世界は無い、ということが体験的に理解されてくるということです。
すべてが自分(自身)の投影を見ているだけ、
あるいは、
すべては自分が見ている夢なのだと、
そういうことがとっさに自覚/認識されてくるということです。
それがどういうことかというと、自分とはこの世界の夢を作り出した「夢を見ている者」であるという自己認識(アイデンティティー)が自覚されるようになっていくということです。
いわゆる、コースでいうところの「心」である自分が自覚されてくるということです。
ちなみに、その「心」は個人的な心ではなく、一なる心のことであり、それをコースでは「神のひとり子」と呼んでいます。
「自分は心である」と自覚したところから見るとき、この世界の中のすべてが等しく幻想の影(虚偽)であるというふうに知覚することができます。
その視点から見るならば、この世界には何一つたりとも真実たるもの(実在するもの)などないことが明らかになります。
コースでは、それを「聖霊の視点(ヴィジョン)」「赦しの視点」と呼んでいます。
いわゆる、それは「悟りの視点」と言うこともできます。
逆に、もしこの世界の中の一つでも「これは真実だ」「これは価値がある」「これは重要だ」と信じてしまうなら、世界の夢の中に入り込んでしまって、その視点を忘れてしまうことになります。
そうなるなら、「この世界は実在しない」と見ることがもはやできなくなってしまうのです。
そして、その瞬間に、心である自覚も見失ってしまうことになります。
そう、私たちは、常に、その状態(心を忘れた状態)になっていると言うことができます。
ですから、私たちはコースの実践を通して、心に戻る訓練をしながら、「自分は心である」ことを思い出していくことをしているのだといえましょう。
そのための訓練を、コースでは、「赦し」「奇跡」と呼んでいます。
その訓練には、プロセスというものがあることを知っておくとよいでしょう。
つまり、一筋縄にはいかないということです。
実際の訓練においては、これまでの(二元性)の知覚とヴィジョンによる真の知覚との間を行ったり来たりすることになります。
その訓練のプロセスにおいて、さまざまな洞察と気づきが起きてくることになります。
その一つが、この世界には何一つ真実たるものもなければ、この世界に神聖なものなどない、ということが体験的に理解されてくるということです。
この世を超えた愛に触れていく経験
コースは極めて優れた実用的な霊性の道である、と言うことができると同時に、じつに不思議な霊性の道である、というふうに言うことができます。
というのも、
コースの実践を通してヴィジョン(聖霊の視点)の経験を重ねていくにしたがって、つまり、真の知覚へとシフトしていくにしたがって、解釈が逆転していくからです。
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