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コースをいくら知的に理解していったとしても、それがあなたを目覚めへと導くわけではないということ
普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験は可能であるばかりか必要である
私たちがコース(奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶとき、
あなたはコース形而上学を学んでいるのでしょうか?
それとも、
コースの学びを通して一元論のスピリチュアリティを探究しているのでしょうか?
そのちがいは大きいので、私たちはそのことについてしっかりとわきまえておくことはとても重要だといえます。
なぜなら、コースを真摯に学んでいるつもりになって、いつの間にか、コース形而上学にがんじがらめになってしまって、何のためのコースの学びなのか?すっかりその目的を忘れてしまうことはよくあることだからです。
もちろん、私たちはコースを実践していくための理論的なところ、つまり、コース形而上学を、まず知的に理解しなければならないといえます。
それは最低限必要なことですが、ただし、それが私たちを神へ導くのではないということです。
知的な学びは「どのような実践をしていけばいいのか」という形而上学的理解を身に着けるためのものであって、あくまでも実践していくための必須条件にしかすぎないということです。
つまり、コース形而上学の知的な学びと理解は必須なわけですが、それによって神のもとに帰れるというわけでないということです。
その形而上学的な理解を日々の実践の中で適用していくことによってしか、このコースのゴールである神の愛の体験へと導かれていくことはないということです。
ようするに、コース学習者の私たちが目指しているのは、あくまでも、体験していくこと、もっといえば体現していくことであり、それは知的理解とは全く異なるものなのだということです。
コースの中にもそのようなことについて述べている箇所がありますので、以下に挙げておきます。
普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験は可能であるばかりか必要である。このコースはその体験へと向かうものである。ここにおいてのみ一貫性が可能となる。なぜなら、ここにおいてのみ不確実性が終わるからである。(C-In.2:5-7)
あなたは依然として、自分が理解するということが真理に対し、強力に貢献し、真理を真理となすと信じ込んでいる。だがあなたは何も理解する必要はないということを私たちは強調してきた。(T-18.Ⅳ.7:5-6)
コースを形而上学上いくら理解していったとしても、真理に近づいているわけではないということです。
形而上学は、所詮、形而上学にしかすぎないわけで、それが意味するのは、「コース教」の信者にならないように警戒すべきだということです。
もっというならば、私たちは、真理については一切理解することなどできないのです。
ならば、どのようにして真理と幻想を識別することができるのか?
というと、
私たちは真理は分からなくとも、真理ではないものは識別できるわけです。
真理ではないものを認識していくこと、つまり、幻想の虚偽を認識していくこと、それが私たちがしていくことなのだということです。
奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W-.pII.13.1:3)
そのために私たちは真理ではないものについて理解し尽くす必要があるのです。
つまり、幻想のしくみ、つまりそのメカニズムを理解し尽くす必要があるということです。
そして、私たちがそのメカニズムを理解し尽くすとき、もはや私たちは幻想に振り回される(惑わされる)ことがなくなります。
「悟り」の境地とは、そういうものだと言うことができるでしょう。
そう、コースという霊性の道を通して、私たちは何を目指しているのか?
というなら、
その悟りの境地を体現することを目指しているのだということを忘れないように、このコースの学びと実践に励んでいきましょう。
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