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救済されるべき者とは他の誰でもなく自分である

「菩薩」について

仏教では、「菩薩」という言葉(概念)があります。

「菩薩」とは、仏陀(覚者)へと至る途上にいる修行者のことを意味するだけでなく、それと共に、他の衆生を救済するためにこの世に留まり続ける修行者のことを、そう呼んでいます。

「他の衆生を救済するためにこの世に留まり続ける」

ということから見るならば、

菩薩の生き方はなんと素晴らしいことでしょう!

というふうに私たちは思いがちです。

そのようになることがもっとも素晴らしく、真理の探究者(修行者)たちがなっていくべき姿だと信じ込んでしまいがちです。

実際に、多くの求道者、スピリチュアリスト、ヒーラーたちの間では、そのような考え方、生き方を素晴らしきことだとしてしまっているといえます。

そして、かつての私もそうであったことは否めません。

ただし、私たちは「菩薩」という在り方について、よくよく考えなければなりません。

というのも、コースの学びが深化していくと共にその知覚がシフトしていくならば、「世界は無い」ということも分かっていきますし、「他者などいない」ということが理解されていくからです。

ならば、「菩薩」という概念がまったくの自我(二元性の思考体系)によるでっち上げられた嘘であるということが明らかです。

知覚がシフトしていき、ここには自分しかいないのだと分かってくるなら、いったい誰を救済するというのでしょう!

つまり、救済されるべき者とは他の誰でもなくこの自分であることが明らかになるわけです。

その自分とは一なる心の自分であり、その自分(真のアイデンティティー)を思い出していくことが真の「救済」であると理解するようになるということです。

ようするに、「菩薩」という概念、つまり、「他者を救済するために」というような見方、考え方は二元性(自我)の思考体系によるまったくデタラメな勝手な捉え方でしかないということが分かってくるということです。

上記に述べたように、知覚のシフト、アイデンティティのシフトが起きていくならば、「自分の外側に救済すべき他者などいない」という知覚になっていきます。

世界はない。他者はいない。

それこそが、非二元の絶対的な真理(教え)です。

ならば、「この世のすべての衆生を救済しなければならない」というストーリーこそが、まったくでっち上げた二元性の思考体系(自我)の夢物語にしかすぎないということは明らかです。

救うのも自分です。救われるのも自分です。

と同時に、自分が救われるなら、この世界も、この世界にいるすべての者たちが救われるわけです。

ここには(神のひとり子の)自分以外いないのです。

ワークブックレッスンの中でもそのことが述べられているわけですが、その意味も深い意味で分かってきます。


”私は世の光である。”(W-p1.61)

”私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。”(W-p1.137)

奇跡講座/中央アート出版社


「菩薩」についての結論を言うなら、

この世界に「菩薩」などいません、

ということです。

(一なる心の)自分以外に誰もいないからです。

救うのも、救われるのも、自分です。

癒すのも、癒されるのも、自分です。

ただし、

逆説的に言いますと、そのような目的で生きはじめるならば、

むしろ、

この世界にいるすべて(の人)が菩薩である、救済者である、

というふうに知覚するようになると言うことができます。


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