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コースのテキストを理解することなしに、その学びも実践もあり得ません


テキストを理解することの重要性

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学びはじめるならば、誰もがコースは難解だと感じることでしょう。

なにせコースの学びはじめというものは、本編三部作の「テキスト」「ワークブック」「教師のためのマニュアル」を読んだとしても、なかなか理解できるものではありません。

なぜ、コースがそれほどまでに難解に思えるのか?

というなら、

それらは私たちが慣れ親しんでいる二元性の思考体系、つまり、自我の思考体系とはまったく異なる思考体系(聖霊の思考体系)から語られているからだと言うことができます。

すでに自我(二元性)の思考体系と同一化してしまっている私たちにとってはとうてい理解し難い思考体系からコースは述べられているということです。

それはまるでまったく異なる言語で書かれているようにさえ思えるわけです。

つまり、私たちが知っておくと良いのは、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶということは、まさに真新しい言語を学んでいるようなものであり、その真新しい言語こそが「聖霊の思考体系」と呼んでいるものだということです。

コースの学びを通して目覚めていこうとするのであるのなら、その思考体系は学ばれる必要がありますし、最終的には完全に修得しなければならないものであるということを覚えておきましょう。

というのも、その思考体系はそもそも私たちにとって本来備わっていた思考体系であり、正当な思考体系であったわけです。

でも私たちは、その思考体系を忘れてしまって(投げ捨ててしまった)いるということなわけです。

それゆえに、私たちは自ら忘れてしまったものを思い出すために、コースの本編三部作を通して、忘れてしまったもう一つの思考体系(聖霊の思考体系)を学んでいるのだといえます。

ようするに、テキスト、ワークブック、教師のマニュアルに書かれてあることを学びそして理解することは必須(必修科目)なのだということです。

それらを理解することなしに、コースの学びもなければ、コースの(赦しの)実践もあり得ないということです。

ですから、本編三部作に述べられている内容を理解していくことはとても重要です。

中でも、特に、テキストの内容を理解していくことはとても重要です。

(ちなみに、「内容を理解する」とは、知的レベルの学びだけではけっしてあり得ず、実践における体験的な学びが伴って理解されるという意味です。)

ワプニック博士も、「テキストで述べられていることを理解している必要がある」というふうに、その重要性について指摘されています。

ワークブックに関しても、「テキストの理解がないならば、ワークブックのレッスンをいくらやったとしても、あまり意味をなさない」とワプニック博士は云います。

逆に、テキストを理解しているところからワークブックレッスンを行っていくならば、ワークブックに書いてある内容をもっと深いレベルで体験的に落とし込んでいくことができるようになります。

何度も申しますが、テキストを理解することは絶対不可欠です。

コース学習者が、どれだけコースの教えを理解しているか?

その基準となるのが、テキストに述べてある内容をどれだけ理解しているか?と言い換えることができます。

いわば、テキストに述べてあることが理解できるようになるということは、それだけ聖霊の思考体系の言語が修得されはじめていると捉えることができます。

そして、聖霊の思考体系、つまり、正しい心の思考体系というものがどういうものであるか?を本当に理解するようになるとき、私たちはようやくこの世界を「教室」として捉えるようになり、本格的なコースの実践(訓練)がはじまると言ってよいでしょう。

ようするに、コースを実践していくためには、その土台となるコースの(聖霊の)思考体系を理解しておく必要があるということ、そして、そのためにはテキストをしっかりと理解することが求められているということです。

言い換えるなら、テキストを学ぼうとしない、テキストを本気で理解しようはしないということは、ある意味で、「自分は自我の思考体系のままでいい(狂気のままでいい)」と宣言しているのだといえます。

ときに、テキストもろくに学ばないで、もっといえば本編三部作以外のコース関連の書物(『神の使者』など)を読んだだけで、あるいは一瞥体験、啓示体験をしただけで、自分はコースを理解していると勘違いする方々もおられたりします。

ひどい例で言えば、「コースはこういう教えです、赦しはこうすればいいのです」というふうに自分の都合のいいように解釈してコースを教えているコース・ティーチャーもおられたりします。

コースという霊性の道(スピリチュアリティ)においては、その教えが難解であるがゆえに、そういうことがいとも容易く起きてしまうのです。

彼らを否定するわけではありませんが、そうなってしまうならば、もはやコースの学びではなくなってしまい、学びの階梯を上っていくことができないということです。

もしコースの教えを自分はもう分かっているというふうに捉えているとしたなら、それは、「コースのイエスよりも自分の方がコースをよく分かっている」と宣言しているのと同じだということです。

もしそのように捉えてしまっているとしたなら、もはやコースを学ぶことができなくなるということです。

コースを学んでいく上で、私たちコース学習者は、そうならないように十分すぎるほど警戒しておく必要があるといえます。

では、コースの学びが深化していった学習者はどうなっていくのか?

というなら、むしろ、自分は何も分かっていないことを自覚したところから生きるようになるといえます。

自分の周りのすべての人を教師として見始めるだけでなく、すべてのものごとを学びのためのレッスンとしていくようになるということです。

つまり、偉大なる生徒(学び手)となっていくということです。


学ばれるべき必修科目である

上記でも述べましたように、コース学習者である私たちにとって、テキストを学んでいくこと、そしてテキストをしっかりと理解していくこと、それは絶対必須であるということです。

それなしでは、当然、コースの学びも実践もあり得ないということです。

もともと自らが本来備えていた思考体系であるからこそ、それを学んでそして修得することは、本当の自分を思い出すためには欠かせないことなのだと知っておくと良いでしょう。

それは、学ばれるべき必修科目(T-In.1:2)であり、それは、再び、習得(修得)されるべきもなのだということです。

その学びとは、忘れてしまった正しい心(聖霊/正気)の思考体系を自分に再び教え込んでいくことなのだということです。

もしそれがなされないならば、どうやって聖霊(イエス/正しい心/正気)の見方、考え方ができるようになれるというのでしょう。

最終的には、聖霊(の思考体系)と同一化していくことが、コースの学びのゴールなのだということを覚えておきましょう。

そういう意味で、本編三部作の理解、とくにテキストを理解できるようになることが、いかに重要かが理解できるでしょう。


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