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自我から見るならば、すべてが深刻に見えます

自我から見るのか?赦しから見るのか?

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践において私たちがしていくことは?

というなら、

自我から見るのか?赦しから見るのか?

の選択なのだといえます。

この世界を見るとき、二つの見方があるのだということです。

それをコースでは。

自我を教師するのか?聖霊を教師とするのか?

というふうな言い方をします。

コースの観点から見るならば、この世界には二つの知覚の仕方があって、それを選べるのだということです。

ですが、通常の肉体と同一化している私たちにとってはその選択肢がない(分からない)状態になっています。

つまり、自我と同一化した状態になっていて、もう一つの選択肢があるということを忘れた状態になっているのです。

そのような状態のとき、つまり、自我を教師としているとき、そこからこの世界を見るならば、すべてが深刻に見えます。

もはや絶望しかないといえるでしょう。

苦しみ、もっといえば、死から逃れられることはけっしてないからです。

実際のところ、この世界にいる私たちは誰もが絶望しているといえます。

それを自覚していようがいまいが、この世界にいる私たち誰もが、本当はそうなのです。

本当は絶望していながらも、それを隠しながら、紛らわせなら生きているのが、私たちだといえましょう。

でもそれはけっして驚くことでもなければ、悲嘆することでもありません。

自我というものはそういうものなわけです。

自我の教師と共に見る世界は、まさにそのような絶望的な世界なわけですが、

ただし、コースは、それとはまったくちがったもう一つの別の見方があることを教えてくれています。

そのもう一つの見方をしていくことを「赦し」と呼んでいます。

その「赦し」から見るならば、この世界について、そして自分自身についてまったく違う知覚がもたらされます。

それによってもたらされる知覚を「ヴィジョン」と呼んでいます。

そのすべてが嘘(虚偽)であることが明らかになります。

赦しから見るならば、たとえ絶望していようがその自分(自我)をどうにかしようとはしません。

何もせずに、あるがままに、そのままを愛して見ています。

というのも、そこから見るとき、そのすべてが嘘(非実在)であることが明らかだからです。


赦しは、じっと静かにしていて、何もしない… ただ見て、待つのみであり、判断はしない。(W-pII.1.4:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社


赦しは、何もしないでただ見ているだけです。

私たちは学びと訓練によってそのように見ることができるということをコースは教えてくれています。

その知覚(真の知覚)を修得していくことがこのコースの目的なのだということです。

ようするに、聖霊/イエスはそのように見ているということを、私たちはコースの実践を通して体験的に学んでいるのだということです。


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