自分はいない = 自分は全一なるひとり子であるということ
「心を忘れた状態」から「心を自覚した状態」へ
私たちは自分たちのアイデンティティーを忘れて、肉体(身体)と同一化してしまった状態になっているといえます。
自分はこの世界の夢を見ている「心」なのだということを、もはやまったく忘れています。
その状態を、「心を忘れた状態(マインドレスネス)」と呼んでいます。
その「心」の自分を思い出していくための手段として、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践では「赦し」をしていくのだということです。
ちなみに、その「心」は、私したちが認識している個人的な心(頭脳)とはまったく異なるものだということを知っておきましょう。
なにせ、その「心」は、この世界の忘却のベールによってまったく忘れ去られてしまっているのです。
言い換えるなら、その「心」はこの世界を超えたところ、つまり、時空を超えたところでただ在り続けています。
その「心」こそが私たちが思い出すべき真のアイデンティティーなのだということです。
ですから、その「心」の自分を自覚していくためにも、まず私たちはコース形而上学上の理解が必須となることを覚えておきなしょう。
つまり、何のための赦しの実践なのか?どういう理論体系のもとに、どのような考え方で、どのように実践をしていけばいいのか?ということについて学んでいくのが、形而上学の学び、なのだということです。
コース形而上学の理解なしには、その実践すらもあり得ないわけです。
もっといえば、学びと実践の両輪を通して、私たしたちは「心」の概念を理解するようになり、実際に、少しづつ「心」の自分を自覚することができるようになるということです。
ようするに、自分は「心」であることを完全に思い出すことがコース学習者の私たちが目指しているゴールだということです。
つまりは、「心を自覚した状態(マインドフルネス)」を目的としているということです。
コースは、そのような霊性の道だということを覚えておきましょう。
「赦し」は今この瞬間に還っていくための実践的な方法です
「自分は心である」ことを自覚しているとき、この世界から影響を受ける必要はないことが分かります。
むしろ、この世界に自分の平安を奪う力を自ら与えていたことが明らかになります。
というのも、「自分は心である」と認識しているところの視座は、この世界に属してはおらず、世界の夢の外側、つまり、時間と空間を超えたところだということが分かるからです。
つまり、自分はその視座からこの世界の夢を眺めていることが思い出されるわけです。
そう、その自分(夢を見ている者)を思い出していくのがこのコースの目的であり、そのための手段が「赦し」だということです。
「赦し」によってもたらされるその視座は、この時間の中で言えば「今この瞬間」です。
「今この瞬間」こそが、時間のない領域です。
それを、ノンデュアリティでは「いまここ」と呼んでおり、コースでは「聖なる瞬間」と呼んでいます。
ですから、「赦し」は、今この瞬間に還っていくための実践的な方法だと言うこともできます。
その「今この瞬間」こそが、私たちがもともといるところであり、私たちが還っていくところなのだと知っておくと良いでしょう。
ただし、言葉上ではその実践はとてもシンプルに聞こえますが、今この瞬間に還っていくその訓練はそう容易いものではないということも知っておかなければなりません。
それは、地道な形而上学の学びと、それに伴った訓練(実践)を要するということです。
訓練(実践)が伴わないなら、学びもありません。
学びがなければ、もちろん、その訓練もありません。
それでも、学びと訓練を積み重ねていくならば、コースを学んでいるのは個人のあなた(自分)ではなく、「心」の自分なのだと自覚されていくようになります。
それが何を意味するのか?というなら、「自分はこの世界にいない」ということが認識されてくるということです。
それは、自分はいない = 自分は全一なるひとり子、であると認識されてくることを意味します。
それはつまり、個人の自分から、「心」の自分へとアイデンティティーがシフトしていくということです。
そう、何度も申しますが、コースの目的は「心」を自覚した状態になること、つまり、「心」の自分を完全に思い出すことなのだということを覚えておきましょう。
そのためにはコース形而上学をしっかり理解していくことが必須ですし、その理解に基づいて地道に訓練(実践)をしていくことで、そうなっていくということです。
そのようなことから言えば、
自分とは何者か?
それを思い出すために私たちはコースを学んでいるのだといえます。
そして、「心」の自分を自覚するようになっていくならば、「この世界はただ自分が夢を見ていただけだった」と理解する(悟る)ようになるでしょう。