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私たちが修得していくべきワンネスを反映した在り方

すべてを包み込むものに対極はあり得ない

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践において私たちがついやってしまうのが、自我を悪者扱いして、自我を敵とみなしてしまうということです。

いわゆる、自我を避けようとしたり、自我を排除しようとしたり、自我を否定するということをしてしまうということです。

そうするならば、分離の想念をかえって強めることになります。

実際、コースは、自我を否定しなさいというというようなことは教えてはいません。

むしろ、自我を見なさい!と教えています。

自我が問題なのではないからです。

もっといえば、自我は実在していないわけです。

「問題は、自我を信じていること」だと、コースは教えてくれています。

自我を避けて、自我を排除し、自我を否定しようするならば、むしろそれは自我を実在化させてしまうことになると知っておくべきです。

自我は自我のまま、そのままにさせておけばいいということです。

というのも、自我は非実在であるからです。

私たちがしていくのは、その自我を咎めずに見るということです。

「咎めずに」とは、ジャッジメント(価値判断)なしに、ということです。

逆にもし、「排除」「除去」「抹消」「除外」「区別」といったことをしてしまうなら、自我と同一化してしまうことになるということを覚えておきましょう。

私たちはつい、ジャッジメント(裁き/価値判断)をしてしまいます。

好き、嫌いがあるとき、好きなほうを選ぼうとします。

快、不快があるなら、快のほうを選ぼうとします。

それが何を意味するのかというなら、つまりは、そうじゃない方を避けよう、排除しようとしているということです。

そのような精神力動に突き動かされてしまうとき、私たちは自我と同一化してしまうのです。

その時点で、すでに自我を実在化させているわけで、赦しは不可能となってしまうことになります。

そう、コースの学びと実践において私たちが覚えておかなければならないのは、自我を避けようとするのでもなく、自我を排除しようとするのでもないということです。

そういう意味では、コースの教えの理論的なところ(形而上学)をしっかり理解していないと、その実践がまったく間違ったものになってしまうといえます。

自我に対して私たちはどのように対処していくのか?というなら、何度も申しているように、「自我を咎めすに見る」ということをしていくのだということです。

それが、「自我を直視する」「自我を聖霊と共に見る」ということです。

実践的なところから言うなら、自我を受け入れ、自我に歩み寄っていく、自我を愛していく、、、というふうに言うことができるでしょう。

いわゆる、それが「赦し」というものであるといえましょう。

そうすることによって、癒しと気づきが起きていくことになります。

それはまるでバラバラに断片化してしまった自我を一つ一つ拾い集めて、受け入れて統合していくような作業の感覚に近いといえましょう。

それがどんな自我だとしても、何一つ例外を設けることなく、除外しようとせずに、受け入れていくことです。

自我を直視する自我を咎めずに見る、とは、そういうことなのだと、その深い意味が分かってくるなら、もはや、自我を嫌悪するどころか、愛するようにさえなっていきます。

自我が問題なのではありません。

同じく、罪が問題なのではありません。

罪悪感が、恐れが、問題なのでもありません。

それらを拒絶して排除しようとするのが、問題なのだということです。

そうではなく、むしろ、自我を、そして、罪悪感を受け入れていくことによって、すべてを包含した聖性というものを私たちは思い出していくようになるのです。


愛の現存そのものは、生来あなたが受け継いでいるものである。愛の対極は恐れであるが、すべてを包み込むものに対極はあり得ない。(T-In.1:7-8)

奇跡講座/中央アート出版社


すべてを包み込むものに対極はあり得ません。

一つたりとも分け隔てることなく、除外することなく、すべてを受け入れていくことです。

それが、この分離の世界の中にいながらも、私たちが修得していくべきワンネスを反映した在り方なのだといえます。

それが私たちが生来受け継いでいるものであり、つまり、それが愛としての在り方です。

その本来の在り方というものを、私たちはコースの学びと実践を通して修得して(思い出して)いるのだといえましょう。


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