これは概念を弄ぶコースではなく、概念を実際に適用していくコースである
形而上学は形而上学にしかすぎない
コース(奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で、その形而上学(理論)を理解していくことは重要かつ必須であるということは言うまでもありません。
それが前提でということで、今回は書いてみようと思います。
これまでも、コース形而上学の理解がいかに重要か?ということについて述べてきました。
ただし、それが知的なレベルで扱われてしまうなら、コースの概念を弄ぶことになってしまいかねません。
そうなってしまうなら、コースはこの世界の夢から自由になっていくためのものでありながら、コースの教えに縛られていくことになりかねないということです。
そうなってしまうなら、もはや、コースが、コースではなくなってしまうことになります。
つまり、このコースの教えは知的に理解されることはもちろんのこと、さらにいえば、実践に適用していくことで体験的に学ばれ、理解されていくものであるということです。
それは、実際に実践で適用していかないならば、学ばれていかないことを意味します。
ようするに、コース形而上学をいくら知的に理解していったとしても、所詮、形而上学は形而上学にしかすぎないということです。
(これは、私自身にも忠告すべきことでもありますが、)コース形而上学を理解しているからといって、その分、コースの学びが進んでいるとか、目覚めているとか、そうだとはかぎらないということです。
それは、長くコースを学んできたコース学習者に対して大いに言えることです。
たとえ長くコースを学んできたとしても、学びの進歩の度合いとはまったく関係ないということです。
何年、何十年とコースを学んできたとしても、学びの階梯の一番下に留まったままでいることはよくあることです。
結局、どれだけコース形而上学を理解していようとも、その教えを手本として示しているかどうかに尽きるといえます。
つまり、訓練(実践)がなされているかどうか、ということです。
手本として示していないならば、つまり、訓練されていないならば、それは学ばれていないということですから。
そのことにつきましては、人のことはさておき、私自身こそ注意していくべきことだといえます。
形而上学(理論)と実際(実践)はちがう
実際に、コース(奇跡のコース/奇跡講座)の教えを実践していくならば、言葉通りに学んで分かっていた理解はまったくちがうものであるということを実感することになります。
コースを実践しているならば、つまり、コースの教えを日常の中で適用していっているならば、形而上学(理論)と実際(実践)はちがうということが分かってくるということです。
つまり、実践はコースで述べられている言葉通りのものではないということです。
(ただ、形而上学の理解がなければその実践もあり得ないのは言うまでもありません。)
言い換えるならば、そういうことは実践していっている者でないと分からないことだといえましょう。
例えば、「聖霊を教師とする」と言うとき、それは実際には自我を咎めずに見ているときのことを言うのだということです。
つまり、自我にフォーカスして、しかも、それが虚偽(非実在)であると分かっているところから見ているときのことを言うわけです。
ようするに、それがどういう実践なのか?そのことが形而上学的にしっかり理解されていないならば、その言葉通りの実践をしてしまうことになり、間違った実践をすることになるということです。
私たちは「言葉」で学んでいくということもあり、そこには比喩的表現が入り込まざるを得ないということを知っておかなければなりません。
つまり、形而上学をいくら理解しているとしても、それで分かったつもりになることは要注意だということです。
分かったつもりになって、ときに、「真理を幻想に持ち込む」「イエスや聖霊をこの幻想世界の中に引きずり込む」ことをしていることはよくあることです。
そうなってしまうならば、もはや、コース形而上学を知的概念として弄んでしまうことになってしまいかねません。
あるいは、あまりにもコース一辺倒になりすぎて、かえってコースの教えにがんじがらめに縛り付けられて、何のためにコースを学んでいるのか分からなくなってしまうこともよくあります。
コースはこの世界から自由になっていくためのものであるにもかかわらず、コースの本来の目的が忘れられて、コースの学びが本末転倒なものになってしまいかねません。
コースの学びにおいて、そういうことが容易く起きていると言うことができます。
そのもっとも典型的な例が、コースを神聖なもの、特別なものとしてしまうということです。
コースの教えを、祈り、ガイダンス、といったスピリチュアルの枠にはめ込んでコース学んでいるコース学習者に、そのケースは多く見受けられます。
それがいけないということではありませんが、それではもはやコースとはちがった学びをしていると言わざるを得ません。
というのも、コースがちゃんと理解されているならば、コースがしっかり学ばれているならば、そのようなことにはけっしてならないわけです。
逆に、コースの学びが本当に深まっていくならば、コースを神聖なもの、特別なものとしては見なくなっていきます。
幻想の中のものは例外なく実在しないということが真に理解されていくなら、たとえそれがコースであれ、その例外ではない、と理解されてくるからです。
それは、コースを否定しているわけではなくて、コースをもはや特別なもの、神聖なもの、とはしなくなっていくだけのことです。
コースは、他にもいくつもある非二元の霊性の道(スピリチュアリティ)の中の一つの霊性の道にしかないと分かってくるということです。
もちろん、コースが教えているその内容は素晴らしいものであることに変わりはありませんし、一元論のスピリチュアリティを探究する者であるならばコースを学ぶ価値はあると言うことができます。
そう、コースを通して目覚めていこうとするのであるならば、それを必要としなくなるまで、学ばれ、修得されていくべきものであるといえます。
要約するならば、
コースは学べば学ぶほど、その素晴らしさが分かっていくとともに、そのコースですらもこの世に属するものだと分かってくる、という意味ではまさに不思議な教えだといえます。
学べば学ぶほど、コースを神聖なものとしていた呪縛から解放されていくからです。
だからこそ、その教えがどれだけ素晴らしいものであるかが分かるといえましょう。
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