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この世界は神のひとり子が妄想によって作り出した夢(幻想)である


自分はいったい何者なのか?

私たちはこの世界が実在しているかのように、この世界が現実かのように知覚しています。

ですが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、その知覚はまったくの嘘であり、幻覚(幻想)なのだと教えてくれています。

もちろん、そのようなことは、非二元(ノンデュアリティ)の教えに触れたことがある者ならば誰だって知っていることです。

「この世界は幻想(夢)である」ということを伝えているのが、一元論、あるいは、非二元のスピリチュアリティなわけです。

ただし、非二元のスピリチュアリティの教えはそこで留まらないということを知っておかなければなりません。

真理、非二元、目覚めを探究している者であるならば、あるいは、コースを学んでいる学習者であるならば、さらに踏み込んで追究していくことが求められているといえます。

それは、この世界は幻想(夢)であったとして、そうであるならば、

誰がこの幻想(夢)を見ているのか?誰がこの夢を作り出したのか?

ということについて追究してしていくということです。

それが、真理の探究者、ノンデュアリスト、そして特にコース学習者には求められているということを覚えておきましょう。


誰がこの世界の夢を見ているのか?

コースが教えていることの理解が深まっていくにつれてこの世界は夢であるということがますます明らかになってくるわけですが、そこで知っておかなければならないことは、その夢は個人の自分が夢を見ているのではないということです。

個人の自分は単なる夢のキャラクター(夢の主人公/夢の登場人物)でしかありません。

そう、私たちが知覚しているこの世界は夢であるものの、個人の自分が作り出した夢ではなく、個別性、個人性を超えた「何者か」が妄想した夢(幻想)なのだということです。

では、その「何者か」とは誰なのか?誰がこの夢を見ているのか?

というなら、

聖書の中ではその存在を神と呼んでいるわけです。

そう、その存在こそが私たちが探究しているものなのだといえます。

(ちなみに、本当の神、つまりコースで言う神は、この世界の夢とは一切関係がありません。)

その聖書の「神」とは、もちろん、二元性の「神」なわけですが、

さらにここで、コースの学びを通して分かってくるのは、その「神」と呼んでいる者(存在)こそ私たち自身なのだということです。

コースでは、その「神/何者か」について、「」と呼んでいます。

その「心」が分離の夢を見ているだけであり、その「心」が分離(自我)の思考体系と同一化して、二元性の世界を体験しているだけということです。

聖書の「神」とはまさに私たち自身であり、その私たち「神=心」が「分離は起きた」という夢(幻想)を見て、その夢の中でそれぞれが様々な形態で同じ分離の体験をしているにしかすぎないということです。

ようするに、「夢を見ている者」である私たちは何をしているのか?

と言うなら、自分で作り出した夢の中に入り込んで、そのことも忘れて、その夢から抜け出せない状態になっているということです。

言い換えるなら、私たちは自分ででっち上げたこの世界の夢の中に閉じ込められてしまっているということです。

ただ、ここで私たちが思い出さなければならないのは、じつは、閉じ込められているのではなく、自らが望んで夢を作り出して、その夢の中に自らが入り込んでいるのだ、ということです。

その真実が、コースの学びと実践を通して理解されてくることになります。

そう、それがコースの学びと実践を通して私たちに求められているのです。

そのための手段が、「赦し」と呼ばれているものです。


赦しという手段を使って

赦しの実践をしていく上で、まず、私たちが思い出さなければならないのは、この個人的な自分は、その妄想の中の登場人物にしかないのだということです。

私たちは夢の中でそれぞれが夢(妄想)の主人公として、その個人的な自分を自分だと信じ込んでいるだけであり、それによって一なるものである「心」の自分を忘れてしまっているだけなのです。

いわゆる、「心を忘れた状態」になっているということです。

何度も申しますが、個人としてのこの自分はまったくの偽りの自分(虚偽)でしかなく、実在などしていません。

この世界に個々として存在している私たちは、つまりは、「夢を見ている者」の妄想(夢)の産物でしかないわけです。

この自分も、自分の外側に見えているこの世界の中に居る他者も、そしてこの世界も、そのすべてが妄想であり、私たちはその妄想の中に入り込んでいるだけです。

私たちはコースを通してその真実を知らなければならないだけでなく、実際に、コースの「赦し」の実践を通して、この世界の夢から目覚めていくことを目指しているのだということを覚えておきましょう。


神のひとり子が妄想して作り出した分離の夢

コースが私たちに教えてくれているのは、この世界は神のひとり子が妄想によって作り出した夢であるということです。

その「神のひとり子」とは、「夢を見ている者」であり、私たちです。

その私たちは、じつは別々の存在なのではなく、神のひとり子である一つの「心」であり、その「心=神のひとり子」が妄想して夢を見ているだけということです。

その妄想とはいったいどういうものなのか?

というならば、

もし「神からの分離」というものがあり得るとしたなら!?!?

という妄想です。

それを、コースでは、「小さな狂った考え」と呼びます。

自分が神でなくなるとしたなら、
自分が神ではない自分になったとしたなら、
自分が自分ではなくなるとしたなら、

という妄想(小さな狂った考え)を抱いたのです。

真実ではそいういうことは絶対にあり得ない、というのに、です。

それでも、妄想の中でもいいから、それをリアルに体験したい!経験したい!とさらに願望(妄想)したということです。

そして、私たちは何をしたか?というと、自分についての真実の一切をあえて自ら忘れたのです。

その結果として、私たちは自分は誰なのか?何者なのか?を忘れてしまって、この世界の中での個別の存在である夢の主人公と同一化することによって、自らが願望した分離の世界を様々な形態でリアルに体験できているというわけです。

それを、私たちは人生と呼んでいます。

そう、私たちは、この今も、その妄想の中にいるのです。

肉体としての個の自分(個別性)を信じているということ自体が、すでにそういうことです。


「真の知覚」の修得のために

コースの学びが深まっていくそのプロセスにおいて、ある時点で、自分は自分で作り出した妄想の夢の中に入り込んでいるということが自覚/認識されていくようになります。

自分とは一なる「心」である、ということが次第に思い出されていくということです。

そうなるとき、そこからがコースの学びと実践の本格的なスタートだと言っても過言ではありません。

というのも、「心」の自分が自覚されていくなら、つまり、真のアイデンティティーが自覚されていくなら、自分がいかに無知で愚かなことをしているか!が自覚されるからです。

その妄想が自分自身をただ傷つけているだけだと分かるなら、誰だってそれをOKとはしないはずです。

だとしても、そう簡単にこの妄想から脱出できるわけではありません。

そこには、学びと訓練が必要なのだということです。

自我を侮ってはいけません。

妄想を信じた心の力(パワー)を侮ってはいけません。

この壮大なる夢を作り出したのは誰なのか?

その自分とはいったい何者なのか?

一つでも妄想を信じたならば、その瞬間に真のアイデンティティーを忘れて、私たちは肉体である夢の主人公と同一化してしまって、あっという間に自分が何者なのか?を忘れてしまうわけですから。

それが今の私たちの状態なのだということをしっかりとわきまえる必要があるということです。

じつのところ、私たちは毎瞬のように、それをし続けています。

それは、常に、そして、永遠に、繰り返されています。

それがこの世界で私たちがしていることです。

そのようにして、自分自身を傷つけているのです。

まずは、そのことを自覚/認識していくことです。

そして、その終わりなき妄想ゲームから脱却していく方法が、コースでは「赦し」「奇跡」と呼んでいるものだということです。

その方法とは、

妄想は妄想であって、所詮、妄想でしかない、

と分かっている視点から平安と共に見るという実践です。

”奇跡とは訂正である。・・・奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。”(W-p1.13.1:1,2)

奇跡講座/中央アート出版社

その視点こそが、二元性を超えた視点であり、悟りの視点です。

そこから見ている知覚こそが、私たちが自ら忘れてしまった知覚の仕方なのだということです。

その知覚が完全に修得されるまで、つまり、完全に思い出されるまで、私たちコース学習者は訓練していかなければならないということです。

ようするに、

私たちはコースの学びと実践を通して何をしていくのか?

というなら、

もともとそうであった知覚の仕方を思い出していくということをしているのだということです。

そう、このコースという霊性の道は、「真の知覚」の修得と、真のアイデンティティーへのシフトを目指しているのだということを覚えておきましょう。


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