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なぜコースのイエスは私たちのことを「幼子(おさなご)」と呼ぶのか?


I know mind について

この世界にいる私たちは誰もが「自分は分かっている、自分は知っている」と思って生きています。

人生とはこれこれである、世界とはこうだ、社会とはこうだ、自分はこうだ、あれはこうだ、こうなれば幸せになれる、あぁなればとんでもないことになる、、、などなど、私たちはこの世界のことについて何が最善なのか分かっている(知っている)つもりでいます。

つまり、自分の考えがまとも(正気)だと思っているわけです。

それを「I know mind 」と呼んでいます。

そこで私たちが知っておかなければならないのは、その「I know mind 」こそが愛の現存を見えなくしている、分からなくしているもの(障壁)なのだということです。

「自分はもう分かっている」としてしまうならば、自分の内側がもはや探究されることがないでしょう。

そうするならば、自覚されることなく愛を阻んでいる「障壁」は無意識に隠されたままになるだけでなく、それゆえに、真に解放されることも、真に癒されることもけっしてないでしょう。

つまりは、心は開かれることなく制限(幻想)の中に留まり続けることになるということです。

言い換えるなら、「私は何も分かっていない、何も知らない」という姿勢が、心を無限へと開いていくのだということを知っておくと良いでしょう。


私たちが「幼子」と呼ばれるわけ

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の中でイエスは、私たちのことを「幼子」とか「子供」というな言葉を使って表現しています。

それはどういうことなのか?

というなら、ようするに、私たちは何も分かっていないということです。

それをコースでは「心を忘れた状態」と呼んでいますし、仏教では「無知」「無明」と呼んでいます。

コースのイエスは、そのような状態であることを私たちに自覚するように求めているわけです。

私たちは、正しいものの見方、正しい考え方、正しい知覚の仕方を学んでいって、もっと霊的に成長していく必要があるということです。

それに対して私たちはどうしているかというなら、

何が自分にとって幸せをもたらすのか?
どうしたら自分は幸せになれるのか?

自分は分かっている、知っているとしていて、つまりは、コースのイエスが教えていることを拒絶していると言うことができます。

コースのイエスが述べている通りに実践していないのが、その証拠です。

そのことを自覚している、していないかにかかわらず、コースのイエスよりも自分のほうが道(方法)が分かっている、知っている、と思っているわけです。

しかし、実際のところ、私たちはいまだ幸せにはなれてなどいないのが事実です。

自分が満たされて幸せであるならば、スピリチュアルな探究などしていないわけで、ましてや、コースなどに興味を抱くわけがありません。

まずコースの学習者の私たちは、そのことを自覚する必要があります。


”私は何が何のためにあるのかを知らない。”(W-p1.25)

奇跡講座/中央アート出版社


そのことを自覚しないかぎり、私たちはコースを学んでいくことなどできいないのだということを知っておくべきです。

もっといえば、「自分は何も分かっていない」ということを自覚していくことがコースの学びのはじまりであり、そして、それがゴールであると言うことができるでしょう。


心の探索

自分は分かっている、自分は知っている。

それを「I know mind 」と呼んでいるわけですが、そのようなマインドで生きるとき、私たちは自分で作り出した世界の中に幽閉されてしまうことになります。

というのも、その「I know mind 」こそが、愛の現存を自覚できなくしている障壁として、自分を有限なるものとして制限しているからです。

そして、私たちはまさにその状態にあるわけです。

この世界の中にいる誰もがそうです。

そこに例外はありません。

ですから、私たちは愛の現存を見えなくしている障壁を取り消していくことが求められているということです。

その障壁とは、自分で作り出したものであるからです。

そのことを自覚するとき、私たちは自分の内側にあるものすべてを明るみにしていかないわけにはいかないことを理解するでしょう。

自分の内側を探究して、そこにあるものを一つ一つを探し出しては、それを取り消していく作業が求められているということです。

そして、その実践こそが、コースでは「赦し」と呼んでいるものです。


”このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは目指している。”(T-In.1:6-7)

”あなたの為すべきことは愛を探し求めることではない。あなたが自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことである。真理であるものを探し求める必要はないが、誤まっているものを探し出すことは確かに必要である。”(T-16.IV.6:1‐2)

奇跡講座/中央アート出版社


それは、ただ「すべては幻想だ」と否定していくような実践ではないということです。

また、それは、「ただ平安に留まる」というような実践でもありません。

私たちは、内側にあるものを明るみにしていく必要があるのです。

自分の内側にあるものが探究されないならば、障壁が取り消されることはあり得ないからです。

コースのワークブックの中の最初のほうで、そのことについて「心の探索」という言葉で表現されています。

それは、コースの学習者である私たちが必ずしていかなければならないものなのだということを覚えておきましょう。


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